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元気の出る言葉・⑦寺脇研


 筆者の高校時代の教科書は分厚く、土曜は休みでは無く半ドンだった。いわゆる「詰め込み教育」の時代である。そもそも〈知識偏重〉の詰め込み教育が推進された原因はスプートニクショックにあると言われる。それは、1957年10月、社会主義国ソ連が最初の人工衛星スプートニク号の打ち上げに成功して、米国と西側陣営に与えた衝撃をさす。以降、宇宙開発競争が始まり、その推進者としての青少年教育に比重が置かれた事に始まる。80年代にその反省から提唱されたのが「ゆとり教育」で、教育内容と授業時間の削減し「自ら考える力の育成」を目標に、その推進的象徴を担ったのが文部官僚、寺脇研氏だった。ここでは、ゆとり教育の評価より、大検制度改革で寺脇氏の紹介をしたい。今は「高校卒業程度認定試験」と呼ばれる「大学入学資格検定試験」を高校中退者に対象を拡大して、人生やり直しのチャンス化したのが寺脇氏なのである。

 彼の成育歴を簡単に紹介する。超エリート医師だった父の鹿大転勤に伴い、十歳で鹿児島の小学校に転向するもイジメにあい、内向少年に。中高一貫の有名私立に入学するが学歴や地位だけで人を評価する父に絶望し、中二で自殺未遂。以後父に心を閉ざしたままだったという。心が休まるのは映画で、筆者と同じく寅さんが好きだったのは共感できる気がします。今の氏は優れた映画評論家でもある。さて、勉強に身のはいらなくなった彼の高校卒業成績は250人中230番台だった。それでも東大現役合格をしていた彼が、総代として卒業答辞を述べている。「中学から入った150人の生徒は、卒業時は120人になった。成績の悪い生徒を追放して実績をとる。それでもこの学校を素晴らしいと言えるのか」という厳しい学校批判だった。後に「大検改革」に力を入れた彼の信念の萌芽が見て取れる。

医師を定年退職した父親は、何もすることが無い、テレビさえも楽しむ事なく寂しい老後を過ごして72歳で他界している。その父が晩年、夜中まで塾に通わされる子供達をみて「この子達を俺のような寂しい老人を作らないようしっかり教育課改革をしてくれ」と彼に伝えたそうな。

最後に、寺脇氏の元気の出る言葉である。「世の中にはできることとできないことがあります。百人いたら百通りの人生があって、誰が上でも下でもないんです。大事なのは〈失敗してもやり直せる〉と思う事です」。

   南九州新聞コラム18日掲載

橋ーー文部官僚は好きでなかったのですが、寺脇氏が前川・望月氏と仲良しと知り再評価しました

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