母・敏子のこと
11月は筆者の誕生月で満71歳となる。母は昭和3年生まれで92歳である。現在、志布志町にある「びろうの樹・山重」という老人介護施設にお世話になっている。入所間もなく、接遇についてアンケートの依頼があり、筆者が母に多くの項目を訊ねたところ、殆どが「とても満足」との答えだったので、丁寧に介護されて居心地がいいのだろうと安心してお任せしている。ところが、コロナ禍で現在、施設は面会謝絶となってしまった。長男を忘れられては、との思いから、今は写真入りの葉書を書いては送り届けている。
母敏子の生家は志布志市の伊崎田である。九人兄弟姉妹の長女として生まれた。「産めよ増やせよ」の時代であるが、生家は旧地主の家だったので、戦前は裕福だったらしく母は志布志高女に入学、在学中の大戦末期には長崎に学徒勤労動員として勤めている。そこで被爆しているのだが「思い出したくない」と体験を語る事は今迄なかった。被爆者手帳の取得も随分後になってからだったと思う。父は〈ソビエト抑留体験者〉で、父の体験談は筆者が150枚ほどで私家版として冊子に纏めている。本紙「雑草」にも昨夏、三回に亘り「シベリア抑留記」として発表させて貰った。農業改良普及員の公僕として勤めあげた父は教育熱心だった。が勉強を教えられたとかの記憶は無い。小1か2年の時、百点をとれずに父から怒られて泣いた覚えがある。泣いている自分を母が抱き上げて呉れ、父と口論していた記憶はある。だからと言って、母が教育に無関心だったとは思えない。中学で比較的モテた?筆者は志布志高校入学後もかつての同級生から多くの手紙が届いていたようだ。ようだ、と書いたのは母がそれらの手紙を隠して始末したからである。電話の無かった時代である、母の秘匿行為によって、恋は消滅していったが、この行為は「勉強に専念させる為」だったのか「早すぎる恋愛を止める為」だったのか解らない。おかげで? 国立大の教育学部にかろうじて滑り込めた次第。高校教師の職場で、母を教えたという方に会った。国語の吉水先生、数学の原田先生という方だった。母の料理で特に美味かったのは幼い頃の唯一のご馳走、誕生日のカレーと、就職後の独身時に不意に訊ねた時に即席で作ってくれた甘いすき焼きだった。さて、早すぎた恋愛? を止められたせいか、自分の結婚は34歳と当時としては遅かった。登山や酒飲みには励んだが独身を貫く筆者に、「家庭を持て」と母から督促の手紙が幾度となく届いた。しかし遅れた分、最高の妻を娶る事が出来た。五年前に他界した妻だが今も感謝は尽きない。亡妻と二人で実家をしばしば訪ねて、生前の父と母に料理をふるまったりしていたので少しは親孝行のマネは出来たと思っている。自分が一人になった後も独り暮らしの母に似たような事は続けたが。
最後に、本稿が掲載の現在、核兵器禁止条約批准国が50国に達し、来年一月発効となった。同条約には原発禁止項目がないという弱点はあるが、一刻も早く全世界から全ての核兵器が消滅される事を被爆二世会員として切に願っている。ーー南九州新聞コラム30日掲載
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