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少年老い易く 学成り難し


少年老い易く學成り難し  1310

 タイトルは朱子の「偶成」の語で、二十歳の頃の日記にも認めている好きな句である。「一寸の光陰軽んずべからず」と肝に銘じて来たつもりが早や、階前の梧葉已に秋声、と知らされる年齢となった。タイトルが浮かんだのは「夏休みの友」を目にしたからで、コミック「三丁目の夕日」の中に、である。七四年から現在まで連載中の本作は二千万部を超えるヒット作で七十巻ほど単行本がある。昭和三十年代の東京の下町に暮らす庶民達の「狭いながらも楽しい我が家」がテーマのヒューマン話で、いつか本欄でも取り上げさせて貰いたい。さて、夏休みの友から着想し、筆者の「勉強史」を回想した。読者諸氏に置かれては何の参考にもなるまい、とは認めつつ。

 芋の子を洗うが如き団塊世代の少年時を西志布志の有明小学校で過ごした。保育園も幼稚園も塾も無し。「友」が長期休みの唯一の宿題だった。休みに入るとすぐに「友と日記帳」を持って、弟と二人で母の実家、伊崎田の川路に向かった。九人兄弟の母の弟妹には中学や高校に在学中の兄さん姉さん達がいて勉強を教えたり遊び相手になってくれ、林間学校みたいな楽しい日々を何日も過ごした。祖父母が優しかったのは言うまでもない。勉強で最初につまずいた記憶は小3の算数である。四桁の数を五個の足し算で、繰り上げ算が全く出来なかった。できない者だけ居残りとして担任の坂之上先生が勉強を教えて下さった結果、どうにかできるようになった。次に躓いたのは小6のローマ字で、真剣にアルファベットに取り組まなかったため中学では英語も苦手になった。勉強にとりくむようになったのは志布志の高二になってからだ。が、本腰ではなくラジオの深夜放送が楽しみのついでの「大学受験講座」だった。ながら勉強の成果、60年代のヒット曲は今でも殆ど記憶としてある。ぎりぎりで鹿大に滑り込み入学できたものの教育学部より山岳部にはまった。二年時には日米安保改定前夜の1969年になっており、国語教師を目指すつもりが哲学に関心が移っていた。「特例」という制度に認定され、哲学を専門に教育と法文の二つの学部で学べるようになった。だがバイトに明け暮れためか六年目に高校社会教師資格をとれ、受験二度目にして教師にやっとなれた。宝塚入団競争の二倍に近い倍率の門を潜れたのは選抜の神が二日酔いだったに違いない。

 しかし、教職に就いてみると同世代の社会科教師は知識量の豊富な人材ばかりだった。負けじと、遅れた勉強を取り戻すべく多くの専門書を買って勉強した。積んどくになったままの本は今も山ほど残っている。それが役立つのはたまにだ。東京の私大に転籍された大学恩師が自著を出版されるたび〈十冊近い〉思想の新刊が送りつけられ、感想を送れとテストみたいな扱いを受ける時。不勉強のボロが見つからないよう必死になる。もう一つは、南日本紙世論に時々、社会批判をテーマに投稿する時。昔の教え子達に心身ともに衰えてない自分を見せつけようとあがきながらの勉強である。

 最後に受験生にエールを贈りたい。「頑張れ受験生の皆さん、努力は裏切らない。君の花開く場所が必ずどこかで待っている」。キザっぽかったらごめんなさい。自身は萎れた花?ながら。

   ーー南九州新聞コラム掲載済み

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