top of page

哲人論④デカルト


 中世、暗黒の時代を乗り越えて、近代哲学を開始したのが「近代哲学の祖」デカルトである。それまで主流は「スコラ神学」と言われるキリスト教の教義研究の学問であった。スコラはスクールの語源である。もっと遡ればローマ帝国時に奴隷に生産させて、する事のない暇人をスコラと呼んだのである。    

 デカルトは、真理とは疑いようのない絶対的なものでなければならないと考えた。例えば、我々の味覚「甘い」の感覚は絶対か、否、体調によって変わるだろう。直前の食べ物によっても変化する。「青い物体」はどうか、当てる光線によっては「茶色の物体」にも見える。数学の1+1=2はどうか、一杯のコップの水に一杯の水を加えて、大きなコップに入れれば1+1は⒈杯の水になる。では「ここに私がいる」という事実は疑い得ない事実か、いや私はベッドの中で、ここにいるという夢を見ているのかもしれない。よってこれも「真理」とは言えない。とすれば、疑い得ない確実な真理、とは無いのではないか。いや、例え夢であろうと「疑っている私は存在する」ことは厳然たる事実だ。という一つの原則に辿り着いたのである。

 これを「われ思う,故にわれあり」〈コギトエルゴスム〉とし、「第一の原理」とした。真理、「第一の原理」を見つける方法として全てを疑ったこの方法を「方法的懐疑」と名付ける。この「考える力」を「理性」と呼ぶなら理性は誰でも持つに違いない。神が人々みんなに「理性」を与えた以上、神の前に人々は平等と言えるのだ。ならば人は「理性」を使って物事を判断すれば、真理に辿り着けるだろう。例えば仮に、「あの人は良い人だ」と仮定を立ててみる。だから、「不正を憎む」「困った人を見捨てない」「裏表がなく正直」と「だから」で全て説明がつくならば「良い人」の仮定は、正しい真理といえる。しかし、「金銭面でルーズだ」という事実が「だから」で説明できないとなったら、「良い人だ」の仮定は誤りで次に別の仮定で説明してみよう。このように理性に合わせて、真理を見つけようとする論は「合理」論とされた。そして、仮定の命題を立てて事実を説明していく方法を演繹〈えんえき〉法と呼んだのである。彼の著方法序説』において、冒頭が「良識〈理性〉はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言ともいわれている。結語。「理性で判断すべし」

Comments


Recent Posts
Archive
bottom of page