三丁目の夕日22
コミック「三丁目の夕日」からの追想記である。
【なごり雪】。歌〈なごり雪〉は昭和49年のヒット曲であるが、本コミックの話は昭和41年冬である。大山根子さん(あだ名はネコちゃん)は17歳の高校2年生で、グラフィックデザイナーになりたいと友達に夢を語る。そして上京後デザインスクールに入学する。当時は専門学校になっていなかったので高卒資格でもなくても入学でき、色んな友達ができた。ネコちゃんは喫茶店でバイトしていたが、初めて三階にある同伴喫茶に飲み物を運んで驚いた体験もさせられている。そして二年目。同級のれい子さんは「せこい勉強があわない」と辞めて行った。同じ頃、「実家の跡継ぎをしなくちゃならなくなった」と優秀だった森さんも退学する、その前にネコちゃんに「好きだった」と告白の言葉を残して。仲間で故郷に戻る彼を上野駅に見送った日、季節外れのなごり雪が舞っていたという話。
筆者の昭和41年は高1である。進路の夢は無かった。文芸部に入って他愛無い青春論議にふけっていた。中学からの同窓のノリオ君も同級で同じ文芸部仲間だった。彼の家にはよく遊びに立ち寄った。すぐ裏手が志布志湾で、海の近くに住める彼が羨ましかった。電気工事士を永年勤め上げた彼は車で30分のところに住んでいるのだがなかなか会えないのが残念である。同じく中三、高一と同級生だったじゅん子さんは同じ町に住んでいるが還暦同窓会以来滅多に会う事はない。彼女は絵画の才能を発揮して、最近では鹿屋市美展で「委嘱異色作家賞」を受賞している。市美展はできるだけ観に行くようにしている。
【パチンコ必勝法】パチンコが趣味の吉田さんのパチンコ歴である。電動の入る前のパチンコは手動式だった。上手い打ち方は「浮かしうちーー球を浮かす」や「溜めうち」などだった。玉一球も昭和46年までは二円、52,年前までは三円だった。電動の今は球の減りも早く、彼は一回千円までと決めている。必勝法は、昔百円で勝負してた時みたいな「絶対に勝つ」という強いハングリー精神だ、と信じているというお話。
筆者も独身時代はパチンコギャンブラーだった。学生時代はバイト代を握りしめパチンコ屋に立ち寄る事があった。有り金全部を失った時は悔しくてたまらない。一日の労働が無益だったとなる。そんな時は家に元って一杯焼酎を引っかけて金を持って再びパチンコ屋に戻った。勝つまでやるのである、その日負けたら次の日もという具合に。当時の日記にはパチンコ収支も付けているが、負けちゃいない。就職後のパチンコ店で停電になり、ろうそくをともされた台の下で打った事もある、さながら〈座頭市〉だった。
同僚にパチンコに誘われる事があった。帰りは招かれて食事となる。手ぶらという訳には行かないのでパチンコの景品を子供さん用みやげにし「うちの子のおもちゃは殆どアンタが呉れたものだよ」と言われもした。宮崎市のパチンコ店で日に十台くらいを「打ち止め」にした時、最後のゲーム店て大当たりの鐘を店中に響かせた事があった。「大ツキの日ってあるもんだ」と思わされた。が、結婚後パチンコとは無縁になった。資金を締め上げられたからである
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