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三丁目の夕日⑯



「三丁目の夕日」から題材をとった昭和30年代の追想記の再開である。戦後10年を経て、新憲法の下、国家という軛〈くびき〉から解放され、〈個人として〉国民が生活に勤しみ始めた時代と言える。BGMには「私の青空」をお勧めしたい。歌詞の一部は〈夕暮れに仰ぎ見る輝く碧空 日が暮れてたどるは我が家の細道 狭いながらも楽しい我が家―略―恋しい家こそ私の青空〉である。エノケンでヒットしたが高田渡もお勧めである。冒頭【】は「夕日」の中のタイトルである。

【寝正月】純文学が本道の作家茶川さんであるが、それでは食えないので、少年向け冒険小説や、別名で大人向けピンク小説を書いている。が、それでも喰えないので、副業として小さな駄菓子屋さんをやっている。助かっているのは、母に育児放棄された淳之介君があるいきさつで一緒に暮らすようになって学校が休みの時に店番をやってくれることである。正月には彼を連れて実家に里帰りの予定でいたが、直前に流行の風邪に二人とも罹(かか)ってしまい、帰れずに寝正月となってしまった。寝正月とは本来は普段多忙の人が正月に家でのんびり寝て過ごすことを言うのだが、正月に病気で寝込んだ時も縁起を担いでこの語を使う事もあるそうです。ところが想定外だったのはおせちは勿論食材を何も買い置きが無かったことです、当時は正月は飲食店や商店は殆どが五日までは休業してました。店の駄菓子で細々と食いつなごうとしていたところに、時々居候にくるヒロミ姉さんがちまきなどのお土産をもって出戻りして二人は感涙にむせぶ、というお話です。

 筆者の大学五年目か六年目の頃、正月に帰れませんでした。髪は伸ばしてうす汚れた格好じゃ、就職してない事が親戚だけじゃなく村中に広まりかねませんでしたから、親も帰郷を望まなかったと思えますね。学生アパートに一人居残って焦ったのは食い物が無かったことです。店は閉まっていて勿論冷蔵庫は無し。街に飢えた野良犬みたいにさまよい出て、やっと見つけましたよ。西鹿児島駅の駅弁です。高いのですが嬉しかったですね。その時の感激が忘れられず、今でも「駅弁フェア」に出会うとつい何個も買いだめしてしまいます(笑)

【電報】電話が普及していなかった時代、電報は貴重な通信手段で電電公社社員の宇名田さんは配達で多忙だった。普通電の他に至急用のウナ電他に、返信も貰う返信料前払い電報、返信通知電報など持ったからである。深夜の配達を終え、朝寝をしている彼に電報が届く。それは「ブジ シュッサンス ボシトモゲンキ」という里帰り出産の奥さんからのお目出たいものだった、というお話。今では祝電、弔電以外に出番の少なくなった電報ですが、筆者は学生時代に帰郷の折、電報を使ってました。実家は志布志駅から十キロほどの山奥にありバス無しなのです。準急大隅に乗る直前に西駅からの「迎え頼む」の電報でした。集落名にするとへき地の割り増しが付き、番地で打つと割り増しが着かないという不思議な料金でしたね。団塊世代の筆者には同じ小さな集落に六人の同窓生がいました。中のヨシマサさんとはこの前根占の道の駅でバッタリ再会でき、元気そうで嬉しいでした。


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