三丁目の夕日⑮
「三丁目の夕日」。追想⑮
「三丁目の夕日」から題材をとった昭和30年代の追想記を再開したい。戦後10年を経て、新憲法の下、国家という軛〈くびき〉から解放され、〈個人として〉国民が生活に勤しみ始めた時代と言える。BGMには「私の青空」をお勧めしたい。歌詞の一部は〈夕暮れに仰ぎ見る輝く碧空 日が暮れてたどるは我が家の細道 狭いながらも楽しい我が家―略―恋しい家こそ私の青空〉である。エノケンでヒットしたが高田渡もお勧めである。文の冒頭【】は「夕日」の中のタイトルである。
【干し芋の味】。正男さんの父親は戦死していた。戦後、母は本家の強い勧めで父の弟と再婚したが、幼い正男さんは父と反りが合わずに、中学卒業後、家出同然に就職してからは家に帰っていなかった。上京後に職を転々としていたが不景気のその年、職を失い、おまけに風邪迄引いて寝込み、食費にも事欠いていた。そんな時、母から送られてきた小包には好物の干し芋がたくさん。感激して貪り食う正男さんだった。結婚し家庭をもってからも母からの干し芋は届いていた。が、母も他界。葬式に帰郷した帰りの列車で、再び故郷に戻る事は無いだろうと思いながら、懐かしかった干し芋も二度と食べられることはないのだろう、と感傷に浸るのだった。
筆者の少年時代は芋も作っていたので、収穫時は芋の根千切りで手はヤニで黒くなっていました。ヤニは洗ってもなかなか取れないんですよねえ。収穫時期はヤニを引っ付けたままでした。そしておやつがわりの芋、つまり焼き芋や蒸かした芋がいつも準備されていたのではなかったので、お腹がすいた時はそのまま生芋をかじっていました。だから幼少時に一生分の芋を食べたといっても過言でないくらいで、芋など食べようと思ってもいませんでした。が、「吊るし芋」の味を覚え、今は自家産の「紅はるか」を吊るし芋にした後、ストーブで焼いて食べています。ご近所にも差し上げて評判がいいので鼻が高いのです。自家産苗なので基腐れ病が心配ではあるのですが。
【三時のおやつ】「今日のおやつはカステラよ」と聞かされて登校したやすこさんは一日中、好きなカステラの事が頭から離れませんでした。そして急いで帰宅の途中、車にはねられ病院へ。意識不明の状態に驚いて駆けつけた母親は慌てて無意識に持ってきたカステラを握ってオロオロするばかりでした。「カステラなど持ってきて」と洩らした母の言葉に「カステラ」と反応してやすこさんの意識がもどる。というお話。
筆者が子供の頃、病気になった時にバナナ一本でも食べさせてもらえれば嬉しいものでした。果物缶詰やフルーツや今でいうスイーツなんて夢のお話で。しかし贅沢品だった果実の生産農家も増えましたね。中学友人の一郎君に正一君は苺を作っていました。正一君は今もやっていて、おいしいので差し入れ用に譲って貰ってました。差し入れ先は鹿児島に春キャンプ入りしてたサッカーのヴィッセル神戸で、教え子の子供の徳重選手が正GKしてました。今は長崎に移籍しキャンプ先も変更になった為、差し入れ不能になりましたが。お刺身を差し入れして、外国人監督から断られたという話を聞いた事がありましたよ。
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