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三丁目の夕日➂


本論で描くのはコミック「三丁目の夕日」から題材をとった追想記である。時代は昭和30年代である。戦後10年を経て、新憲法下、国家という軛〈くびき〉から解放され、〈個人として〉国民が生活に勤しみ始めた時代と言える。BGMには「私の青空」をお勧めしたい。歌詞の一部である。〈夕暮れに仰ぎ見る輝く碧空 日が暮れてたどるは我が家の細道 狭いながらも楽しい我が家―略―恋しい家こそ私の青空〉。冒頭の【】はコミックのタイトルである

【名前】東京の近郊、三丁目で小さな鈴木オートという車の小さな修理工場の一家が中心の物語である。一人息子の小学生一平くんに「私の名前」という宿題が出される。一平くんが書いた宿題は以下である。

『僕の名前は鈴木一平です。僕のお父ちゃんもお母ちゃんも、戦争ですごく辛い目にあったそうです。そして二度と戦争のない平和な世の中が来ることを願って、僕の名前に平和の〈平〉の字をつけたんだそうです。本当言うと、僕は自分の名前があまり好きじゃありませんでした。でも、お父ちゃん、お母ちゃんから自分の名前の話を聞いて、前より少し自分の名前が好きになりました』。

 筆者の知人の中で「一平くん」という名前は教え子の子供さんにいます。教え子まゆみさんは子育てしながら、大学と院で心理学を学び、県内では少ない臨床心理士の資格を取った頑張り屋さんです。持ち前の粘り強さで、仕事に頑張っている事でしょう。戦後生まれの同僚には「憲一」さんや、「凡人」さんがいました。「凡人」は「天皇の人間宣言」に比してつけられたと聞きましたが、学歴優秀の先輩でした。よくも両親は「凡人」の名をつけられたものと思いました。確か〈かずと〉との読みだときいた気がするのですが、仲間からは親しみ込めて〈ぼんちゃん〉と呼ばれてましたね


【干いも兄ちゃん】。東北の田舎から中学卒業と同時に集団就職列車で、主人公一家の鈴木オートにやって来たのが六郎くんです。母親が持たせてくれた「干し芋」を一平君と一緒にたべて仲良くなります。が、修理技術は全くの零からのスタートで、住み込みしながら学ぶ事になります。家族の一員のように接遇されてホームシックにもかからず、次々新開発される自動車の修理工として成長していき、頼られる存在になっていくという話です。

 さて、筆者の中学は昭和40(1965)年でした。団塊世代の半数近くの同窓生が〈金の卵〉として集団就職していきました。何人かを志布志駅に見送りに行きました。まさあき君と見送ったえいこさんの、列車から手を振った涙顔は今でも印象に残っています。まさあき君も就職準備の為に志布志の街で買い物し、浴衣や下駄を買うのに付き合いました。下駄の「男傘」の図案を気に入ったような。「男傘」は前年「ああ上野駅」と同じ頃に、井沢八郎氏がヒットさせた曲でした。建設会社に就職したまさあき君は還暦同窓会に大型外車で帰郷、大会社の社長になっていて、故郷に錦を飾ったのが嬉しかったです。彼らが後の我が国の高度経済成長をけん引したのだなと思い、感謝でした。〈記憶違いがあったらごめんなさい、旧い半世紀前の事であり、加えて自分の頭の劣化のせいですーー南九州新聞コラム掲載済み

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