top of page

「病者の祈り」を止揚すべく

次の「詩」、タイトルは「病者の祈り」としてカトリックでは比較的に知られているようで、故日野原重明は「現代医学と宗教」 の中で紹介しています

☆「病者の祈り」ーー〈私の〉祈りに対する神の応え。 ニューヨーク大学リハビリテーション研究所蔵。

大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに 慎み深く従順であるようにと弱さを授かった  より偉大なことができるように健康を求めたのに よりよきことができるようにと病弱を与えられた  幸せになろうとして富を求めたのに 賢明であるようにと貧困を授かった  世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに 神の前にひざまずくようにと弱さを授かった  人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった  求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた  神の意にそわぬ者であるにもかかわらず心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた  私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ


 なぜ、世界から「戦争」「飢餓・貧困」「病気」「幼児虐待」などによる早逝が絶えず、「残念だっただろう」「かわいそうに」など、身代わりになれない立場からの空虚な言葉が消え去らないのかと考えます。上記の詩が「造物主あるいは創造神」からの答えだとする考えに納得しえないのです。絶望し、呪いたくなるような境遇でも、「神」の深遠な?配慮に感謝すべきなのでしょうか。

「宗教はアヘン〈麻薬〉だ」、理由は変えるべき現実から逃避させるからだ、としたマルクスは上記論の対極に位置するものと、半世紀前の小生は全面的にこの立場に居ました。

造物主や創造主としての「神」は今も肯定出来かねます。「神は乗り越えられない試練は与えない」の論も同様に頷けない。

ところが、「永遠に転生する自分こそが神なり」としたらーーそして「試練」も自ら選んだ「現生課題」だとしたら、――少しは納得いくのです。それだとしても、「呪いたくなるような悲惨な境遇」を選んで出生してくるのはなぜか。この問いに、今一番流行りのセラピスト飯田史彦氏は「解らない事はブラックボックスに入れてほっときましょう。死んだら解るのですから」と答えています。が、〈厳密学としての哲学〉を志した者として、この論は無責任で納得しかねるのです。ニーチェの思想、「〈末期に〉これが私の人生だったのか、よろし、それならば何度でも来い」との実存的転生論は「神は死んだ。今、人は自らが超人〈神に替わる者〉であれ」をベースに成立していると思うのですが、今からの小生の課題は、上記「貧者の祈り」「宗教はアヘン」「自らが超人たれ」を止揚した論を追求し、長くかかろうと答えを見つけていきたいと考えます。新年に当り、小生のこれからの決意でした。ーー南九州新聞コラム元旦掲載

Комментарии


Recent Posts
Archive
bottom of page