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「日本学術会議」論

筆者は高校社会科の退職教師である。東大の加藤陽子教授の名を今回の「日本学術会議」会員に任命されなかった一人に見つけて驚いた。近・現代史が専門の氏は高校日本史教科書では大手のY出版で執筆もしている著名な歴史学者である。明確な理由も示されないままに「会員不適格」の烙印を押されたら、大学での教授への処遇はそのまま据え置かれるか、交付金減額の惧れはない? ゼミの学生等はかまわず学ぶ?就活の不利益はない? 教科書執筆は今後も? など教授と距離を置く動きが始まらないと言えるだろうか? それこそ学問への委縮効果を狙うものであり、「学問の自由」への侵害であり、明白な違憲行為と考える。

 日本学術会議成立の経緯から考察してみたい。同会は1949(昭和24)年、「科学が文化国家の基礎であるという確信の下、行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的」として設立された。その役割は(1)政府に対する政策提言(2)国際的な活動(3)科学者間ネットワークの構築(4)科学の役割についての世論啓発等である。先の大戦に科学者達が協力した結果、戦争の惨禍を防ぎ得なかったという反省が創立の原点にあると言える。同会議が「学問の自由」の実践と深くかかわる組織として設立されたことは明らかで、3条で「職務の独立性」を強調しているのも同会議の自律性を大切にしているからに他ならない。定員210名は3年ごとに半数が入れ替えられる。発足時は選挙制だったが、学者に選挙運動は馴染まない、との理由から推薦制になった。同会発足時i吉田首相は、「政治的便宜から制肘〈せいちゅう。干渉の意〉を受けることのない高度の自主性が与えられている」と発言し、推薦制に変えた1983年の中曽根首相も「形式的任命であり、総理に指揮監督権はない」と国会答弁している。同法の付帯決議も同様の趣旨で、「推薦に基づき任命される」の「基づく」とは「天皇は内閣の指名にもとづいて内閣総理大臣を任命する」と同じで、強い法的拘束性がある。天皇に拒否権が無いことも同趣旨である。私見になるが、背景には同会議が「軍事研究を行わない」旨の主張をしている事にあると考える。同趣旨のアピールは既に1950、67年に出されているが、2017年にも出している。そして不任命の六名は「安保法」「共謀罪法」「特定秘密保護法」「辺野古基地建設」等に何らかの反対声明をだして来た学者である。政権から見ると「目の上のたん瘤」に思えて切り落とそうと考えたのではないか。

 なれど、学問研究とは百花繚乱の如き自由な競争の中で研鑽され、その成果は時の権力者で無く、国民が享受すべきものだと思う。「国家百年の計」を考えた時、時の政権が目先の学問成果を欲しがるべきではない。必要とあれば御用学者を集めて諮問機関など容易に作れる筈。F35一機が百億を超えるのに対し学術会議は年間僅か十億である。行革で同会の在り方を見直す等とは争点ずらしも甚だしい。既に百近い学会や団体が批判声明を出している。球団経営では金は出すが口は出さない、のが名オーナーとされるが政権にもそんな度量が欲しい。本年、ノーベル賞受賞者が一人も出なかったことが寂しい限りである。ーー15日南九州新聞コラム掲載

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