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「元気の出る言葉・ちばてつや」

ハナから私事で、教職ならぬ恐縮である。大学の教育学部に進んだものの教職を断念した時期がある。再度、教職を目指すきっかけを奮い起こしてくれたのは漫画石ノ森章太郎氏の〈仮面ライダーV3〉そして本稿のちばてつや氏の〈紫電改のタカ〉だった。〈V3〉についてはいずれ書きたい。以下は二十二年前の拙作小説「単独行」からの一文である。『昔、読んだ漫画〈紫電改のタカ〉を思い出す。侵略戦争を疑いもせず、純粋・真剣に闘った少年飛行兵の滝。敗戦を覚悟した時、彼は教師になって平和国家を再建したいと決意する。だが、残酷な命令の元、最後の特攻兵となって死地に飛び立つ。それを読んだ昔、俺も先生になって、平和と正義を子供達に教えたいと思ったのじゃ無かったか』。

大学五年で進路を見失っていた主人公の日記文です。主人公〈俺〉は23歳の設定ゆえ、自己陶酔感が恥ずかしいですが。

てつや氏に戻ります。てつや氏、ニ歳の時に家族は中国の奉天〈瀋陽〉に移住するがすぐに日米開戦を迎える。1945(昭和20年)、同地で終戦を迎えたのは六歳だった。敗戦に伴い、暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、生と死が隣り合わせの過酷な時期を過ごした。しかし、父が親しくしていた中国人に一家は匿われる。「自分は人間を信じる」との信念はその体験からうまれた、と氏は語る。帰国は命懸けの旅だったという。「四人兄弟で、3番目が2歳、一番下は生まれたばかり。私とすぐ下の弟は親のリュックにつかまって、必死についていきました。手を離したら最後、命があるかどうかもわからない。何しろ食べる物がなかった」と語っている。がその帰国体験は長く封印してきた。「引き揚げ者のくせに」と白い目で見られたからだ。が、両親が病床に就き、長男としての責任から必死で画いた漫画が認められ、漫画家として家族を支える自信がついていく。「ちかいの魔球」「紫電改のタカ」「ハリスの風」そして「明日のジョー」と次々とヒット作を世に出す。そんな頃、同業者と話す中で「戦争体験を伝えよう」と一致し、手塚治虫、水木しげる氏らと「漫画家たちの戦争」シリーズを刊行していく。

氏は今、こう語る「戦争体験をもっと語って伝えたい。なんか今、日本ががらっと変わるんじゃないかと思っています。自分を含め、戦争体験者達が語る事で、日本がどんな風に進めばいいのかという事をみんなに真剣に考えてほしいと思います」

最後にちば氏の元気の出る言葉である。「生きさせて貰えるのなら、燃え尽きるまで戦え、そして灰になれ」。この言葉は異国の地から帰るに帰れなかった人、生きたくても生きられなかった多くの人々の代弁に聞こえる。ちなみに、代表作 「明日のジョー」のラストは闘い尽きて真っ白になったジョーであった。氏の「引き揚げ体験の記憶」や「平和への思い」は、ネット「ちばてつや」で見られます。

  ーー南九州新聞コラム掲載済み

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