「二人の恩師」
恩師といえば在学中に指導を受けた先生を一般に言うようだが、本稿で紹介する方は同じ教育現場でご指導を戴いた御恩あるお二人で、共にご他界なされている。
大久保寛先生。教師になりたての頃から演劇指導に携わる事になり、元来興味もあり引き受けた。四十年前のその頃から、県高校演劇界を牽引しておられたのが大久保先生だった。同じ職場で指導を習おうと喜界高校に転勤希望を出して幸運にもかなえられた。教職員住宅でも近くに住める事になり、すぐに師から新民謡「想い出の喜界島」と「本茶峠」を教わって組合歓迎会で早速披露して仲間に驚かれた記憶がある。その年、師は脚本「小さな島の物語」を創作。喜高演劇部は県大会を勝ち、九州大会で最優秀となり九州代表校として岩手県であった全国大会で上演する栄誉にあずかる。転勤されていた師は同行して下さり、二人で「賢治記念館」を研修できたのはいい思い出である。その、後も師は演劇指導を続けられ、九州一になる事六回と、比類なき大功績を成し遂げられている。国語科教師としての研修成果を「さつま語辞典」として刊行されもしたが、後年には句作に励まれた模様である。郷里薩摩川内市のトンボロ公募句に入選され、里町海岸には御句が刻印されている。
「現代鹿児島俳句大系」26巻に自作選を発表されているが、中から一句。
「島の子らと 芝居せし日や るりはこべ」。
杉尾勝治先生。大久保先生の後任として同じ住宅に住まわれる事となった。大久保先生とは一年間だったが、杉尾先生とは四年間ご一緒する中で、色々学ばせて戴いた。それまでは知らなかった師であるが、すぐに理解したのは(人権・同和教育)の優れた実践家だという事だった。その頃の県同和教育研究協議会のスローガンは「より深くかかわる営みを」だったと思うのだが、師は心からそれを実践されていたように思う。最初に驚かされたのは呼名だった。兄貴分が弟妹を呼ぶように生徒を呼び捨てだった、それも自然な大声で。その後、師には多くの同和教育実践家を紹介して貰った。県同教役員はもとより義務制の方々まで。そして「生涯、生徒の側に寄り添う」は、その中で自分に根付いていったように思う。師は生徒だけでなく、常に周りの人に細やかな気配りをされる一方、大声で腹の底から笑い声をあげる方でもあった。博識でいつも読書に勤しんでおられるかと思いきや酒も好きで、よく酒の付き合いもして貰い、その中で教えて貰う事は少なくなかった。ある時、訊ねた事がある。「今からどんな生き方をされたいと思っておられますか」と。「同世代の人たちに恥じる事の無い、責任ある生き方をしたいですね」がその時の答えだった。師は四十代半ばの頃だったと思う。
最後に自分にとって「師」とは、問うた時に常にご教唆下さる方である。「あの方ならなんと答えて下さるだろうか」と問うた場合、近くに存在しておられなくとも、そして存命でなくとも、自分の精神に直接届き、励ましになってくれる存在である。御恩に感謝の念は忘れずにいたいと自戒している。
追記。先日「雑草」・岩重氏の「心に残る素敵な音楽」の中、豪華演奏者に大久保先生のご長男・重樹氏の名を嬉しく拝見した次第である。
ーー南九州新聞コラム9/16日掲載
Comments