元気のでる言葉⑫・白石康二朗
筆者の本名は「ユーコー」である。元山男且つ海ンチュを自称している者として、この名は気に入っている。日本初のマナスル登頂を成功させ、日本山岳会を創設し初代会長を務めたのが槇有恒〈ユーコー〉氏だからである。
さて多田雄幸〈ユーコー〉氏とはヨットマンとして、1982年、史上初の世界一周単独ヨットレースの優勝者なのである。面白いのは、山の経験がありさえすれば「山男」を自称できるのに対し、ヨット所有者や試乗者では「ヨットマン」とは名乗れない事だ。ヨットが生き方そのものになっているような人や、特筆に値するヨット歴を成した人を指すとされ、ウィキペディア〈ネット百科事典〉には邦人として堀江健一氏の他、五人しか名はない。中に、薩摩オゴジョ今給黎(いまきいれ)教子さんの名があるのは嬉しい。勿論、雄幸氏や白石康二郎氏の名もある。
康次郎が師匠となる雄幸氏に弟子入りしたのは高校生の時である。世界一周優勝の記事を見ての飛び込み電話だった。高校卒業するとすぐに雄幸氏の元でアシストしながらヨット技術を学ぶ。独身だった師の本業はタクシー運転手だったが、元来の冒険家で、植村直巳の北極点単独到達のアシストも務めている。アマチュアのサックス奏者として各地で「ユーコー」と呼び慕われていたが「そう鬱質」を抱えていた。その彼が突然の自殺を図ったのはレース最中のシドニーのホテルだった。地獄の南氷洋航海中に日に三度も転覆した事が彼の鬱質を最大にしたのだろうか、期待に応えられなかった己を強く責めたのかも知れない。雄幸氏60歳、康次郎24だった。筆者は今給黎さんの講演を聴いた事がある。マゼラン海峡では不眠不休に近い航海で、十mを超す高波に加え、氷山との衝突も恐怖だったそうだ。
話を戻す。康次郎は独り、シドニーへ師のヨットを引き取りに出向く。サポート役の彼への世間の非難も弱い波では無かった。「若輩ゆえ配慮不十分だった」というものである。外からの批判なら何とでも言える。「失敗した冒険家」への過酷さは異常と言えるほどだ。話は逸れる。04年イラクで三人の邦人が人質になった時の官民挙げての「自己責任論」は凄かった。映画「バッシング」をみれば解るだろう。だが海外の評価は異なった。米国務長官パウエルはその早い時期に「イラクの人々の為に、危険を冒して現地入りする市民がいる事を日本は誇りに思うべきだ」「危険地域に入るリスクを人々は理解せねばならない。リスクを誰も引き受けなければ世界は前に進まなくなる」と語っている。この発言を紹介するマスコミは数えるほどだった。それが「自己責任」論が席捲〈せっけん〉する我が国の現実である。話を白石氏に戻す。孤独感にさいなまれ戻った康次郎を温かく迎えたのは仲間だった。船のオーナー。ヨットクラブメンバー、造船技師、修理工、設計士等の援助を受けて師のヨットを修復、「スピリットオブユーコー 〈雄幸の魂〉」と名付けた船で単独無寄港世界一周の最年少記録を康二郎が成し遂げたのは26の時だった。
「敵が千人いたら勝てない。勝つ方法は一つ。自分の為に闘ってくれる仲間を千人以上作る事だ」、を彼の〈元気の出る言葉〉としたい。ーー20日南九州新聞コラム掲載
フォト左が康二朗、右が雄幸氏