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志布志高校恩師芳尾先生


多くの学恩の中、文学の面白さに気づかせてくれたのは高校の国語教師で。志布志高校に入学後、国語〈古文〉を担当して下さったのが芳尾先生だった。昭和40年である。〈写真は志布志高校正門です〉

 熊大をでたばかりのいかにも新任らしい、初々しく楚々とした小柄なお姉さんといった感じの先生だった。〈新任らしく初々しい、といった感想は当たっていない、後に自分が同じく高校教師になって新任女教師に持った感想が加えられている〉。が、〈お姉さん〉は当たっている、と思う。16才の我々と六つしか違わなかったのだから。

 最初の夏井海岸の遠足で、生徒達から貰った飴を「食べる?」と廻して下さった。まさに優しいお姉さんという感じだった

 最初に当てられたのもはっきりと覚えている。「まだ当てていない人に当てましょうね、はい○○君」と指名されたのだった。何と答えたか覚えていないのだから、多分答えられなかったのだろう。ほどなく先生に〈個人添削〉をして貰える事になった。勉強した課題をノートで教えて貰うやり方である。社会科教師としての自分には個人添削の経験はないから、推測でしかないのだが一人のノートを見るのに短くとも十分はかかるだろう。何人の個人指導をしておられたかは判らないが、空き時間にノートを見られるのだから相当のご負担だったろう、と思う。その指導だったからか、授業で一度だけ誉められた記憶がある。百人一首の中で【吹くからに 秋の草木のしをるれば むべ山風を 嵐と言ふらむ】で質問【何故、嵐というの?】に答えられたのである。その年の午年年賀状も「一月元旦は重ね語で間違いです」と添削された。

 二年時は〈特進科の劣等生〉だった為、勉強の悲惨な記憶は殆ど消えている。担任は苦手な数学のM先生で、数学不得手の仲間で自然につるんだ。通山のY君、月野のH君、吉村のN君など。打ちのめされかけていた自尊心を救ってくれたのは唯一好きになりかけていた国語だった。が、芳尾先生の国語で、「かつて」を「かって」と発音したところ、「先生、違うんじゃないか」と指摘したのは大崎のH君だった、先生が何と答えられたか記憶にない。三年での授業はなかったが、受験前に大宰府の合格祈願のお守りを戴いた。わざわざ取り寄せられたのだろうが生徒達の為に相当なご負担だったろう、〈学問の神様〉のご加護で合格できた次第。大学一年の山岳部時代に高校友人のT君を誘って阿蘇山行した途中、結婚退職されていた先生宅を訪ねた。「枇榔島をひょっこりひょうたん島みたいだと彼が言ったのよ」と授業中に洩らされた事のあるご主人とは会えなかったが十年前に会えた。退職後に宮崎のご自宅を訪ねての事である。

 先生とは二度同窓会でお会いしている。僅か三年の在職にも関わらず同窓会に招かれているのは生徒達に慕われていた証だろう。以来、熊本在の先生とご厚誼戴けるようになった。迷惑を省みずに年二回拙作本をお届けするのは添削指導の、自家製玉葱は夏井の飴玉の返礼のつもりである。熊本地震やコロナ禍もあり、佐多の拙宅への招待には応えて貰っていない。さても、国語教師になる予定が哲学にハマって倫理社会の教師になった経緯はいつか書かせて貰いたい。

ーー南九州新聞コラム4日掲載

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