元気の出る言葉⑥・水木しげる論
水木しげる氏から何を連想されるだろうか。漫画ゲゲゲの鬼太郎の原作者であり、連ドラ・ゲゲゲの女房では、隻腕の漫画家として向井理さんが演じたのをご記憶の方もいるだろう。五年前に他界されたが、氏を称えて生地の鳥取境港には妖怪像の並んだ〈水木しげるロード〉があるし、米子空港は〈米子鬼太郎空港〉と呼ばれている。
鹿児島との縁はというと、妖怪〈一反木綿〉を鬼太郎の仲間として全国区に広めた人である。簡潔に説明すると一反木綿は肝付町の権現山を住処とする妖怪で、長さ約十米にして飛来し、四十九所神社〈流鏑馬で有名〉周辺によく出没したという。人を襲う妖怪として恐れられていたが、水木氏の漫画ではいい性格の明るいキャラとして描かれた為か、鳥取県境港市の観光協会主催の第1回妖怪人気投票では、なんと1位に選ばれている。結果を知った一反木綿が「わっぜぇか!」と喜びのあまり空高く舞いあがったという話は、無いようだ。
話を水木氏に戻す。大正十一年、大阪に生まれるも幼少期を父方の故郷境港で過ごす。その頃近所にいた〈のんのんーー神仏に仕えるひとの意〉ばぁさんに大きな影響を受ける。ばあさんは幼いしげる〈自分をしげるでなくゲゲと発音していた〉に妖怪〉や死後の話などいっぱい語ってくれたそうな。それが後の妖怪漫画の基礎になっている。少年期のしげる少年はヌーボーとしてて、成績も芳しくはなかったという。仕事についてもすぐに首になることがよくあった。
やがて太平洋戦争が開戦。召集令状が来た時21になっていた。送られた先は激戦地ラバウルで、ここでは日本兵のうち13万人が戦没している。飢えやマラリアに苦しめられた挙句、氏の左腕は爆弾で吹き飛び、バケツ一杯流れ出た血を止めて軍医は麻酔無しで切断したそうだ。そんな彼と親しく交わってくれたのが現地のトライ族で、〈自然と精霊〉を共に生きる彼らに共感する事は多かったという。
戦後、帰国して色んな仕事〈闇屋、魚売り、アパート経営など〉をやった
が上手くいかず、辿り着いたのが紙芝居作家だった。だがこれもパッとせず貸本漫画作家に転向。初期の得意は戦記ものだった。筆者は氏の戦記物も持っているが、ありがちな英雄譚でなく「従軍慰安婦」「総員玉砕せよ」「ラバウル戦記」など実話を元にしたものが多いようだ。漫画従軍慰安婦の中では〈よく従軍慰安婦のバイショウのことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうがやはり“地獄”だったと思う。 だからバイショウは、すべきだろうナ。といつも思っている。〉と本音らしきを語る。
40前に結婚するも極貧生活は続いた。「腐っていないバナナを食べる事」が新婚夫婦の夢だったという。やがてゲゲゲでブームがやってくる。
そんな氏の元気のでる言葉です 〇成功や栄誉や勝ち負けを目的とするな 〇貧乏がいいのは邪心が無い為感じやすくなるからです 〇好きという言葉を信じて、しないではおられない事を続けなさい 〇他人との比較でなく、あくまで自分の楽しさを追求すべし 〇怠け者になりなさい、ただし中年過ぎてからね。若い時は好きな道にただただ努力です 〇目に見えない世界を信じよう。
橋ーー14日南九州新聞コラム掲載