哲学をする志・後
鹿大教育学部にギリギリの成績で私が入学できたのは昭和四十三〈一九六八〉年である。授業料は年一万二千円で、現在に試算して五万円程の安さだった。奨学金が月に八千円、三畳一間の家賃が三千円で、一番高い肉体労働のバイトが日に八百円なりだった。数字に詳しいのは貧乏学生なりに日記に家計簿如きをつけていたからである。
将来は中学の国語教師になれればいいな、くらいに思っていた。ところが時代は一九七十年の日米安保改定前夜であった。米国は沖縄基地から出撃した爆撃機でベトナムを空爆するという「ベトナム戦争」の最中で、一方、国内では東大や日大から端を発した学園民主化闘争が、授業料値上げ問題と絡まって全国の大学に学園紛争として広がりつつあったのである。その学園闘争を権力は「大学管理法」という法制化で圧殺しようとした。各大学で反対の為に無期限ストに突入し、わが鹿大でも自治会がストを提案するべくクラスの実行委員を公募した。小生はそれに立候補して委員になったのである。学校が休みになればバイトは出来るし、山行もできると不純にも考えたからである。ところが。引っ張り出された学習会で下手な意見でも述べようものなら見事に論破されるのである。自治会執行部メンバーには確とした歴史観や社会観があり、マルキシズムを根底とするものだった。しかし、新左翼セクト色〈党派性〉の強い政治論に共感は出来ず、そんなメンバーが集まったのが「ベ平連」だった。そこでも理論武装の為に学ぶ必要があった。だが学習会が頻繁にできた訳ではない。活動遠征費を稼ぐ為のバイトに忙しかったからである、佐世保原潜、九大戦闘機墜落、東京は反戦集会など。合間を縫って学習会はあった。一番感激した本はマルクスの「共産党宣言」だった。「平等社会になったら働く時間は今の半分になる」に、オオっと目から鱗が落ちる思いがした。一方、マルクスに限界も感じるようになっていった。「主体性論」が欠落していると思え、そこから「実存主義思想」に傾倒していった、独学である。キルケゴールやニーチェに衝撃を受けて、哲学を学ぶ事が面白くなり、国語から社会〈倫理・哲学〉へ興味は移行していった。六年かけて大学を卒業してどうにか高校社会科教師になれたのだった。
さて、本欄に「自分でしか書けないものを」と考えた時、浮かんだのは「哲学紹介」である。硬い内容とも思われるので、途中に「元気の出ることば」シリーズを挿みつつ、近々に展開してみたいと思っています。筆名の「てつと」は「哲人」と書いて長男に付けました。次男の名は「真吾」です、「吾こそ真なり」という実存主義思想の命題からです。
私事を書きましたが、「哲学者論」を続けてみたいと考えています。九条の会発起人の井上ひさし氏の語を借りれば「難しいことをやさしく」書きたい。不安もありますが、乞うご期待としておきます。無論、時には「雑記」も挿んで。
---16日南九州新聞コラム掲載