野口健のまやかし・前
スウェーデンの16歳の少女、グレタ・トゥンベリさんに世界中から注目が集まっている。アメリカのトランプ大統領やブラジルのボロソロ大統領からの“揶揄”にも臆することなく、地球温暖化対策を訴え続け、スペインでのCOP25では「人々は変われます。人々は行動を変える準備ができていて、それこそが希望です」と堂々たるスピーチを行った。
そんななか、日本では自称「アルピニスト」野口健のツイートに批判が殺到している。野口氏といえば安倍政権擁護や右派的発言が多いことで知られるが、野口氏は12日、グレタさんが電車に載って食事する画像を転載したネトウヨ系まとめサイトの記事をリツイートしながら、こんな投稿をしたのである。
〈あれ? 電車に乗っていらっしゃるのかな? 飛行機が× という方はもちろん車も× だろうし、てっきりヨット以外は馬車でご移動されていらっしゃるのかと想像をしていましたが…〉
周知の通り、グレタさんは温室効果ガスの排出が多い飛行機の利用を避け、ヨットや電車、電気自動車などで移動している。このグレタさんの温暖化への取り組みのひとつを揶揄した野口氏のツイートには、当然、批判が殺到。その後、「女性自身」のウェブ版がこの件を取り上げると、投稿を削除するとともに、こんな言い逃れを始めた。
〈この記事に寄せられた多くのコメントを読みました。一部、批判的な意見もあり僕の表現も大人げなかったのかもしれませんね。ただ公共交通機関である飛行機に乗ることが環境破壊に繋がるという姿勢からして動力による移動手段を好まないのかと。そういう印象があったのも事実。〉 〈グレタさんには「さん」付け。僕には「野口」と大半で呼び捨て。中々、見ない展開。それは別にいいとしても僕は一言も「電車はダメ」とは書いていませんよね。飛行機に乗らないぐらいだから馬車に乗る印象があったと。女性自身さん、せめて僕にも取材して欲しかったな。〉 〈ツイッターという文字制限のあるところで呟いた僕のミスでもありますね。新聞にて連載記事を書いていますので、次回のコラムにてちゃんと書きます。素朴な疑問を呟いただけですが、これだけ関心が集まるとは。さすがグレタさんです。この注目度があれば彼女は直接的なアクションをいくつも起こせる!〉
「さすがグレタさんです」などと取り繕って批判をかわそうという匂いがプンプンするが、反発は全くおさまらず、ネット上では野口氏への批判は鳴り止んでいない。しかも、そのなかには、野口氏に人権意識が欠如している証拠として、こんなショッキングな過去が暴露するツイートも出始めた。
「ネパールの15歳の少女と児童婚した」「子猫を射殺した」
にわかには信じがたい話で、野口氏自身も野口支持者のネトウヨユーザーから〈これは名誉毀損で訴えてもいいと思うのですが〉とリプを送られると、〈その線で今、調べています!〉と返信するなど、法的措置までちらつかせ始めた。
だが、検証してみたところ、いま、ネットで言われている野口氏の「児童婚」「猫殺し」は、過去に自ら明かしている事柄だった。
まず「ネパールの15歳の少女と児童婚した」なる話。1999年に出版された著書『落ちこぼれてエベレスト』(文藝春秋)などにそのくだりが出てくる。しかも、それを読むと、とても“国籍を超えた純愛”などとは言えるようなものではない。むしろ、ネットで指摘されている「人権侵害の児童婚」そのものだった。
15歳シェルパの娘と「父親のOK」で結婚した野口健氏の行動は、ユニセフが根絶に取り組む「児童婚」そのもの
検証のため、あえて紙幅を割いて詳細を紹介しておこう。同書によれば、1995年2月、20代の大学生だった野口はメラ・ピーク挑戦のためネパールへ飛び、15人のシェルパを雇った。そして、そのサーダー(リーダー格)であるテンバーという男性の家で娘と出会った。
〈彼女は英語ができなかった。テンバーに聞くと名前はペンハー・ラム。年は15か16だと言う。父親のテンバーも娘の正確な年齢がわからない。「メイビー、フィフティーン、オア、シックスティーン。アイドンノー」といった調子なのだ。〉(『落ちこぼれて〜』)
ラムは父親に言われ、野口の身の回りの世話をした。〈それから毎晩のように、テンバーの家に通った〉という野口氏は、こう書いている。
〈僕は、ただただラムに会いたかった。一目惚れだった。何を話すわけではない。大体、ラムは英語を話せないので、会話というものが成立しない。僕は、ラムとは従兄弟にあたるデンディに通訳を頼んだが、ラムは外国人と話すのが恥ずかしいようだった。ただ目と目が合うだけで、僕はどきどきした。〉 〈彼女にずっとそばにいてほしい。ラムと一緒になりたい。 山頂アタックをかける前に、この気持ちをすっきりさせたいと思った。 ルクラを発って8日目の夜、僕はテンバーに言っていた。 「実は、ラムと結婚したいのです」〉 ──どんな答えが返ってくるのだろうか。断られたらどうしようか。 僕はとても緊張していたのだが、テンバーの返事はあっけなかった。 「OK、OK」 それだけだった。僕の結婚はこうして決まった。〉
野口氏は何やら“純愛美談”のように振り返っているが、ちょっと待ってほしい。英語も話せない15歳か16歳のシェルパの娘と結婚したと言っても、コレ、どうみても本人の意思と関係なく父親が決めた結婚だろう。ユニセフは「児童婚」を〈18歳未満での結婚、またはそれに相当する状態にあること〉と定義しており、子どもの権利侵害として世界的な問題になっている。根絶に向け国際社会では様々な取り組みがなされている。
〈児童婚は、子どもの権利の侵害であり、子どもの成長発達に悪い影響を与えます。女の子は妊娠・出産による妊産婦死亡リスクが高まるほか、暴力、虐待、搾取の被害も受けやすいのです。また、学校を中途退学するリスクも高まります。〉(ユニセフHP)
国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチの2016年の報告書によれば、ネパールでも、法律では結婚できるのは20歳からにもかかわらず、少女の37%、少年の約11%が18歳未満で結婚しているといい、ネパール政府は2030年までの児童婚根絶を掲げている。
言っておくが、20年以上前の出来事で現代と人権意識が違うというような話ではまったくない。野口氏が結婚した1990年代にはすでに「幼年結婚」は廃絶すべき悪しき慣習として世界各国で問題視されていた。野口氏のやったことはこの時点で「子どもの人権侵害」といわれても仕方がないだろう。
児童婚しておきながら2年で離婚、インタビューで「こっちは冗談のつもり」
だが、さらに目を疑うのはここからだ。『落ちこぼれてエベレスト』によると、メラ・ピーク登頂を終えルクラに戻った野口はラムとの結婚式を挙げ、〈初めての夜〉を明かした。そして、野口はラムを連れてカトマンズへ行った。〈僕は彼女を日本に連れて帰るつもりだった〉が、〈僕と彼女だけでは会話が成立しない〉ので、従兄弟のデンディにも一緒に来てもらった。
首都・カトマンズの環境に慣れないラム。野口が日本の実家に電話を入れると、母親と大喧嘩になったという。日本大使館で「ネパールでは15歳以下とは結婚できない」と告げられた野口は、ラムをカトマンズの親戚の家へ預けて帰国。〈彼女には学費も含め、毎月4万円の送金をすることにした〉という。そして、送金を続けながら野口は〈僕はラムと結婚したことを、後悔しはじめていた〉のだという。
2年後、エベレスト敗退の後、野口はカトマンズのラムの親戚の家に連絡を入れ、親族会議の場で切り出した。
〈「実は、ラムと別れたいのです」 親戚の人たちは、僕と結婚してからペンパー・ラムの人格が変わっていしまったことを知っていた。彼女は都会での生活に慣れ、もうルクラのシェルパ社会では生活できなくなってしまっていた。 ラムの兄は言った。 「ラムはもうルクラの村には戻ってこれない。日本にも連れて行ってもらえない。ケンと別れて、彼女はこの先どこで暮らしたら良いのか」 その通りだった。僕は彼女の人生を根本から変えてしまっていた。責任は大きかった。 「何とか考え直してもらえないだろうか」 彼らの意見は一致していた。 彼らの横で、ラムは一人泣いている。 これは全部自分が招いた結果なのだ。〉 〈親族会議は3日間続いた。親族は僕とラムが別れることに反対だった。 だが、僕の意思は固かった。 最後は慰謝料をめぐっての金銭的な交渉となり、僕とラムの離れ離れの結婚生活は2年余りで終止符を打つことになった。〉
一応、『落ちこぼれて〜』には野口なりの“自責の念”が書かれているように思うかもしれないが、2017年のある対談記事を読むと、そんな印象もガラリと変わる。編集者・島地勝彦のインタビューに答える野口のセリフは、あまりにも軽薄だ。
「エベレストに登る前、体を高地に慣れさせるために、シェルパの家に寝泊まりしていたことがあって。向こうの家では、朝早くに女性が水を汲みに行き、火をおこしてお茶を淹れるところから一日が始まります。部屋は一つでみんな雑魚寝ですから、その様子を寝ぼけながらボーッと見ていたんですね。 その家では、朝の水汲みは、当時15歳くらいの女の子の仕事で、甲斐甲斐しく働く様子にグッときて、山の上で、お父さんに『あなたの娘にホレちゃったかも』といったら、『そうか、じゃ、下りたら持っていけ』と。高地で意識がふわふわしている状態で、こっちは冗談のつもりでしたが、それが大問題で。」 「ぼくも数ヵ月ごとにネパールに行ってました。でも、山奥の生活に比べるとカトマンズは大都会で、それなりの不労所得も入るものだから、会うたびにどんどんケバい女になっていくんですね。しかも、他に男ができたような雰囲気もあり、しばらくしてその関係は終わることになります。そんなわけで、今の結婚が1回目なのか、2回目なのか、説明するのがややこしいんです。」(「現代ビジネス」2017年8月13日)
ネパールの貧困の寒村から、親に言い寄って、英語も喋れない15の娘を都会に連れ出し、自分は帰国。元の貧困生活に戻れなくさせておきながら、カネの力で別れた野口。「こっちは冗談のつもり」とか「会うたびにどんどんケバい女になっていく」とか、よくもそんなセリフが口をつくものだ。
野口がやったことは明らかに経済格差を利用した性的搾取であり、「子どもの人権侵害」だ。しかも、さらなる問題は野口氏は自身の加害性についてまったく無自覚なことだ。「子どもの人権侵害」問題や「児童婚」という性的搾取を、自身が、後年、「自慢話」か「ネタ」のように堂々と開陳しているというのは、一体どういう神経をしているのか。
空気銃で猫の頭を吹き飛ばし、批判してきた友人の足まで撃っていた
もうひとつの問題点である「猫殺し」についても事実なのは同様だった。野口健は1973年、父方の祖父は元軍人、父は外交官、母はギリシャからの移民でエジプト国籍という家庭に生まれた。「家庭環境は複雑だった」「少年時代は素行が悪かった」というようなエピソードは、野口氏自身が著書で繰り返し書いていることだ。
そのなかに、「猫を殺した」というものはたしかに存在した。カイロの日本人学校の小学5年生時の話だ。野口は仲良くなった友人3人で〈いろいろなイタズラをしていたが、僕がだんだん暴力的になってきたのは空気銃を手に入れてからだ〉と記している。
〈空き缶を標的に練習をし、うまく打てるようになると身の回りのものを撃った。内装中の家の電球、走行中の車の窓。空気銃では窓ガラスにヒビが入るだけだったが、車が急ブレーキを踏むと大喜びした。それから標的は生き物へと移った。エジプト人は鳩を食べるので、最初は鳩を撃ってそれを肉屋に売り、そのお金でまた弾を買うということをやっていた。そのうちに空気銃で猫を脅し始めた。 そして、僕は誤って猫の頭を吹き飛ばしてしまったのだ。〉(『100万回のコンチクショー』集英社、2002年出版)
このエピソードは別の自著やノンフィクション作家が書いた野口の評伝にも記されている。つまり、「猫殺し」は本人が認める事実である。しかも、野口が空気銃で撃ったのは鳩や猫だけではなかった。実名と思われる友人の名前を匿名に変えて、同書から引用を続ける。
〈何ということをしてしまったのか……。呆然としていると、一緒にいたAという友達が「何で撃ったんだよー、何で殺したんだよ!」と、僕を責め始めた。 僕は動揺し、混乱していた。僕だって撃つつもりはなかったのに、指が勝手に動いたんだ。そこにAがギャーギャー言いつのる。 「うるせー、黙らないと撃つからな」 僕は思わずそう言った。Aは「撃ってみろよ」とわめく。 僕は覚えていないが、そばにいたBによると、僕らは「撃つぞ」「撃ってみろ」と何度もわめきあっていたそうだ。僕は空気銃を下に向けていたが、だらりと下ろした銃口がAの足に触れていた。わめきあっているうちに、指に力が入った。 銃声がして、一瞬してからAが泣き叫んだ。「熱い!」「熱い!」 僕は友人の足を撃ってしまった。あわててタクシーをつかまえ病院に向かったが、この事件は学校だけではなく、カイロの日本人社会で大問題になってしまった。しょげかえっていたので、オヤジにはそれほど叱られなかったものの、僕は日本人社会で孤立した。〉(同)
もう十分だろう。野口氏の「猫殺し」は明らかな事実だった。しかも、友人のことまで撃っていたとは……。
もちろん、若い頃には誰でも「過ち」を犯すこともあるし、自己中心的な衝動に取り憑かれることもある。しかし、野口氏の問題はネットで指摘されているこうした「過去の過ち」だけではない。「児童婚」の問題についてもそうだが、いまもそのことを本気で反省しているようには見えないことだ。そして、こうした姿勢はその後の野口氏の政治行動、さらに今回のグレタさん攻撃でも見え隠れする。また、グレタさんを揶揄する裏で、野口氏自身にエメルギー産業との利害関係があることもわかった。そのへんについては、後編で改めてお伝えしよう
リテラ15日より転載
橋ーー昔、同じく山をやったものとして、ヤツは胡散臭の固まりです(# ゚Д゚)