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「中村哲」氏追悼


川筋男・中村哲氏を悼む 

 二月前、本紙雑草欄で「骨噛み」の冒頭を「川筋の男が泣くのは生涯一度、骨噛みの時だ」と〈青春の門〉から引用した。  

 炭鉱産業が栄え始めた明治期、筑豊から遠賀川で運ばれた石炭を船に積む沖仲仕は権蔵〈ごんぞう〉と呼ばれた。♪ 遠賀川土手行きゃ雁が鳴く ーー 権蔵稼業と呼ばれていても♪ との作業歌は映画〈日本侠客伝・花と龍〉の中で高倉健扮する主人公、玉井金五郎が歌っている。明治終期の若松で暴力支配下にあった沖仲仕達の為に命懸けで子頭連合組合を結成するのが金五郎なのだが、実話で、作者は金五郎の子の火野葦平である。彼は父を「川筋気質の男」として描く。曲がった事が嫌いで筋を通す、困った人を放っておけない、義理人情に厚く強者にへつらわない、誠を信条とする、等の人物像だ。金五郎の孫になるのが中村哲氏で、祖父と瓜二つの顔は川筋気質を引き継いだかのようである。

「この国の愚かな為政者達とは次元の違う誇り高い生き方を貫いた中村さん」とTVで金平キャスターが彼を追悼していたが、多くの特番で業績紹介がなされているのでここでは短く記す。

 一九八三年、ハンセン病専門医としてパキスタンに赴任した氏は政府の圧力によりアフガンに拠点を移す。中で手にしたのが「百人の意思より一本の水路の方が多くの人命を救える」という術だった。以後、氏の支援組織ペシャワール会を柱に邦人の募金でアフガンの灌漑、農業、医療、井戸事業等に取り組む。

 二千一年の米軍による空爆の際には「いのちの基金」を設立し、日本からの募金で避難民十五万人への緊急食糧配給を実施した。この時「反戦反核大隅市民の会」は上山陸三代表の呼びかけで、寄せられた浄財五十八万円余りを同会に寄金している。

 二千三年、イラク特措法成立後は活動車両から日の丸を取り外す。日本政府が米軍支援した事によりテロの標的になるとの判断からだった。二千八年には国会証人としてテロ対策特別措置法に「軍事活動は治安を悪化させるだけ」と自衛隊派兵に明確な反対を表明している。

彼の行動の後ろ盾こそ憲法九条だった。「平和憲法は戦争犠牲者の位牌である」を根底に「憲法九条のおかげで紛争地であるアフガニスタンで活動できる。憲法を改正して九条をなくすなんて言語道断だ」と繰り返してきた。誠実さこそ武力以上に自分を守ってくれると信じ、アフガンで死ねれば本懐だとももらしていた。「今いる場所で最善を尽くす事が隣人や世界を良くする事に繋がる」との精神は氏の座右の銘「一隅を照らす」だったのだろうか。「バカはバカなりの生き方がある。終わりの時こそ人間の真価が試されるんだ」とも口にしていた氏は異教のモスクも建設し、今後は教育支援もだと計画する中で生を閉じた。〈歩く憲法九条〉の突然の消失ではあるが、嘆くより悲憤をこえて希望を分かつ事こそと考える。遺志を継ぎ、ペシャワール会は事業継続を即座に表明した。

 別稿で、氏の〈地球温暖化への警鐘〉と、〈故伊籐和也氏が広めたサチュマ芋〉は書きたい。丸腰で戦地に出向いた真の勇者に、冒頭の「遠賀川」を追悼歌として送る 

馬鹿じゃ出来ない利口じゃやらぬ 胸に抱いた夢ひとつ♪ 

アフガンの地で安らかに眠れ 平和の戦士よ 合掌

橋ーー19日南九州新聞コラム予定です。オフサイドと知りつつ。メンゴ

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