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有明小が西志布志小の頃


皇太子〈現上皇〉の婚約発表があったのが、昭和三十三〈一九五八〉年で、その年の夏、北薩から故郷の西志布志村に一家転住した。四月の町政施行で村は有明町と改称して西志布志小も有明小と改名したばかりで三年生に二学期からの編入だった。

担任は、伊崎田出身の坂之上先生で坊主頭に、足にゲートル腰に手ぬぐいという恰好で田舎のオジサンという風貌だった。農作もなさっていた先生は昼休みには弁当の無い児童達を誘って学校の裏にある丘で持参の藷を一緒に食べておられた。給食の無い時代で、「欠食児童」という言葉は後に知る。

 社会科の授業で、「漁港の台風対策」という質問を出された事がある。自分は勢い込んで答えた。巨大屋根で覆えばいいと。今でいうならドーム型漁港だ。友人は答えた。頑丈な堤防を稼働型にしたらいいと。六十年前の子供の提案だがどちらも実現してはいない。その時のテーマは「治山治水こそ国の基盤」だったような気がするのだが、河川増水や山崩れなどによる災害が現在も多発しているのを見る時、六十年もの間、行政は何をしていたのだろうとの疑問は消えない。ちなみに六年前、五兆を超え防衛費より多額だった防災関係費は減少の一方で昨年は二・五兆円に半減している。これはどうした事か? 

さて。坂之上先生の国語の時間には決まって自分に最初に朗読を命ぜられた。「なぜ、いつも最初にてつと君に読ませるの」と疑問を発したのが英理子で、「上手な人がお手本になるからじゃ」と先生は答えられたのだが、それが最初に聞いた彼女の声だった。「鉄筋の家」の授業では、教員住宅の英理子の家を引率されて見学に行った事がある。これが〈上流階層〉の住いかと子供心に勝手に思ったのは、皇太子の婚約発表と共に、〈上流階層〉という異次元世界を意味する語を耳にするようになっていたからだと思う。

 五年生での担任は志布志から転勤してこられた若い福山吉連先生だった。当時としては珍しくカメラを持っておられてよく写真を撮って下さった。清掃時の写真とか今も懐かしく見ている。福山先生の朝自習方法も独特だった。名前順に生徒が立って教科書朗読をするのだった。何回か読み間違えた時点で失格して次の生徒に移る。毎朝続けて、先に読み進めたが勝ちという競争だった。そのゲームのおかげで、自分は増々朗読が得意になっていった。女の子にカッコイイと思われたいとの不純な動機だったが、いずれにせよ国語好きにさせて貰った亡き二人の恩師に感謝を捧げたい。英理子がトイレに閉じ込められる事件が起きたのも同じ五年の時だ。ませた学童達の悪戯に泣きもせず、美少女は芯の強さを見せつけたらしい。

 現在時々、自製の野菜を初恋の女、英理子に送りつけている。お返しが出来なくてと電話で詫びる彼女に「元ハクいスケなら返し方はあるだろ」と、ヤーさん顔負けの心にもない下品な言葉をかけられるのも、お互い独身となり歳をとったせいだろう。ーー南九州新聞コラム5日掲載

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