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文太氏の誇り

菅原文太さんが2014年11月に81歳で亡くなってから、ちょうど5年が経った。映画「仁義なき戦い」「トラック野郎」シリーズで知られ、出演した映画の数は250本以上。誰もが認める戦後の日本映画界を支えた名優だが、09年に山梨県北杜市で農園を開いて農家になることを宣言。2012年に俳優業からの引退を表明した。  だが、都市を離れた場所で農業をしていたからといって隠居生活を送っていたわけではない。若いスタッフを雇って無農薬農業の実践家として“土”の改良に取り組み、11年に東日本大震災が起きてからは「命」をテーマに積極的に発言した。ときには、国会議員を怒鳴りつけたこともあった。俳優を引退した後、文太さんがやろうとしたことは何だったのか。妻の文子さん(77)に話を聞いた。 * * *  今から約8年前のことだ。文太さんは、自民党の若手国会議員らとの食事の席に出ていた。話の流れで、当時、日本と中国の間で対立が激しくなっていた尖閣諸島問題に話題が移った。同席していた教育家の水谷修さんは、その時の様子をブログに記している。先に一人の議員がこう話した。 「法律を改正し、自衛隊を送り、武力をもってしても、中国船舶を追い返し、国土を守らなくてはいけない。これでは、日本の名誉が損なわれる」  文太さんは、この発言に怒りをあらわにした。 「君が、行くのかね。もし、そこで、一発でも銃弾が飛べば、戦争が始まる。そして、自衛官のいのちが失われる。それでもいいのかね。君に聞きたい。君たち国会議員が、守るのは、国家の名誉なのか、それとも、国民一人ひとりのいのちなのか。君は、何もわかっていないようだ。私は、あの戦争を体験している。どんなことがあっても、二度と戦争はしてはいけない。名誉なんてものは、一度失っても取り戻すことは出来る。でも、いのちは一度失われたら二度と取り戻すことが出来ない」  文太さんに叱責された国会議員は席を外して帰ってしまったという。文子さんも、この場に同席していた。

「そんなこともありましたね(笑)。国会議員を叱ったのは、その時だけではありませんでしたよ。夫は1933年生まれで、戦争を経験しています。戦争は『起きるもの』ではなくて、『起こすもの』。若い人には理解できないかもしれませんが、今の日本で戦争を起こす雰囲気ができつつあることに、危機感を持っていました」(文子さん)  1956年に映画デビューし、1973年に「仁義なき戦い」で日本を代表するスターになった。「仁義なき戦い」はたんなるヤクザ映画ではない。原爆で壊滅した戦後の広島を舞台に、ヤクザの世界を通じて「裏切り」「弱者の切り捨て」など社会と人間の不条理を描いた。戦いで犠牲になるのはいつも若者で、戦争の悲劇にも通じる。「仁義なき戦い」が暴力映画であるにもかかわらず「反戦映画」と評されるのも、そのためだ。その主役を演じた文太さんは、一躍スターダムにのし上がった。 ヤクザ映画の時代の終焉と俳優業の転機  かといって、スター俳優になっても生活に派手さはなく、質素だったという。 「性格が凝り性なので、仕事は徹底的にやる人。好きだったのはジャズとボクシングでしたが、芸能人の仲間と豪遊するとか、高級車に乗るとか、そういう趣味はまったくない人でした」(文子さん)  文子さんによると、文太さんに俳優としての転機が訪れたのは1980年代半ばだったという。1984年、稲川会をつくった稲川聖城初代会長がモデルの映画「修羅の群れ」で主役を依頼されたが、断った。文太さんは、文子さんにこんなことを話した。 「ヤクザ映画の時代は終焉を迎えている。そのなかで、自分もヤクザ映画以外の分野を切り開かないといけない。親分とのつながりで作る映画は、いずれ手詰まりになる」  その見立ては的中する。ヤクザ映画の市場は年々縮小していった。一方で、文太さんは様々な仕事をするようになる。「ビルマの竪琴」「鹿鳴館」など市川崑監督の作品の常連となったほか、ナレーションや声優の仕事も引き受け、アニメ映画「千と千尋の神隠し」で演じた釜爺は、宮崎駿監督から絶賛された。  社会貢献活動にも積極的だった。1985年には筋ジストロフィー患者の詩や俳句などを集めた『女といっしょにモスクワへ行きたい』を出版。患者との交流を続けた。同じ頃には、在日コリアンのための老人ホームづくりに協力し、募金活動の世話人の一人になった。

「俳優という仕事は組織に属しているわけではありませんから、病気になったらダメになるし、スキャンダルにあえば仕事はなくなります。その中で『自分に何がやれるんだろう』と考えていたのだろうと思います」(文子さん) デジタルの撮影が嫌い  農家になったのは、2009年。山梨県北杜市に農園を開いた。標高940メートルの地点に広がる農地で、農薬と化学肥料を使わない農業を始めた。 「都会で生活していると、靴が汚れることもないし、コンビニもあるので便利だけど、私も夫も都会が好きではなかった。だから、農業を始める時は何の問題もありませんでした。地に足をつけて、土にひざまずいて生きることが人間にとって自然なこと。でも、農業がこんなに大変だとは思いませんでした(笑)」(文子さん)  その文太さんが晩年にこだわったのが「命」だった。特に2011年の東日本大震災以降は、福島や故郷の宮城に足を運んで被災者の話に耳を傾けた。2013年には、こう話している。 「農薬、化学肥料、放射能と、どこの土も何かに汚染されている。自分だけではどうしようもないよ。それでも、子どもたちは新しく生まれる。だから俺は無農薬農業を続けるんだ。小さな抵抗だけどね」  2012年に俳優引退を宣言した理由については、いくつかの説明をしている。周囲によく語っていたのは「撮影がデジタルになったから」ということだ。「監督が『スタート!』と言っても、モニターばっかり見てて、何度も撮り直しをやらされる。撮影現場に緊張感がなくなってイヤになった」と、笑い話にしていた。2007年に膀胱がんになり、体力が落ちたことも影響を与えたかもしれない。  しかし、これらは表面的な理由だったのではないか。少なくとも、東日本大震災という現実が与えた影響が大きかったのはたしかだ。  2013年に俳優業復帰の可能性を聞かれた時は、「やらないね」と言いながらも「いいノンフィクションならやってみたいと思うけど」とも話していた。東日本大震災と福島第一原発事故という現実に、劇作品よりも「もっと社会のために動かなければならない」と考えていたのだろう。

文太さんにとって俳優引退は、重要なことではなかったはずだ。農園を開いてからは積極的に若いスタッフを雇い、農業を学ぶためにいろんな人と交流した。原発問題や特定秘密保護法などの政治的な問題では、積極的に取材を引き受け、今の日本社会に警鐘を鳴らした。文子さんも、その活動に一緒に参加した。 「今の日本人は自分の半径数メートルぐらいのことしか考えない人が多いでしょう。もっと世の中の出来事、広い世界を見てほしい。夫も、そう考えていたと思います」(文子さん)  国会議員になるよう、選挙に出ることも依頼された。ただ、この時ばかりは文子さんが大反対したそうだ。 「熱心に誘ってきたのは、亀井静香(元金融担当相)さん。でも、私が『それだけはやらないで』と言いました。だって、夫はヤクザの親分とも仲がよくて、写真もたくさん撮っている。政治家になっても袋だたきにされるだけですから。夫は、人と付き合う基準は『良い人か、嫌な人か』でしかないんです。ヤクザでも良い人ならいいし、総理大臣でも嫌な人なら付き合わない。年齢、職業、国籍なんて何も気にしない。そういう人は、建前だけの今の日本では受け入れられないですよね」(文子さん) ■沖縄で見せた最後の俳優魂  亡くなる約4週間前の2014年11月には、沖縄県知事選の応援演説をした。沖縄では、当時の現職の仲井眞弘多氏と、米軍普天間基地の辺野古移設反対を訴える翁長雄志氏による事実上の一騎打ちだった。知人から「翁長さんの選挙が危ない」と聞き、病を押して出かけたのだ。  だが、そこで最後の“俳優魂”を見せる。1万人の聴衆を前に、あの低い声で、ゆっくりとこう語りかけた。 「政治の役割は二つあります。一つは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと」 そして、「基地の県外移設」を公約にしながら、当選後にほごにした仲井眞氏に対しては、「仁義なき戦い」で裏切り者の山守に向けたセリフをぶつけた。 「仲井眞さん、弾はまだ一発、残っとるがよ」 文太さんがそう凄むと、会場は大きな拍手と歓声に包まれた。同月16日の投開票では、翁長氏が仲井真氏に約10万票の差をつけて当選。事前予測を上回る圧勝だった。それを見届けた文太さんは、12日後の28日、81歳の人生に幕を下ろした。 晩年に、珍しく自ら筆をとって色紙に言葉を書いたことがある。そこにはこう書かれていた。<心は湖水に随(したが)って 共に悠悠たり> 俳優を引退した後の文太さんは忙しい日々を過ごした。農園では、再生可能エネルギーを利用して電力も自給自足する構想を描き、職業に関係なく志を同じくする仲間がよく訪れた。文子さんは「いつも仲間たちと夢を語り合ってました」と話す。 沖縄で文太さんからエールを受けた翁長氏は、知事として安倍政権と激しく対決し、18年8月に現職知事のまま死去した。その遺志は、玉城デニー沖縄県知事に引き継がれた。

農園は、現在は文子さんが文太さんの育てた“土”を引き継いで、農業を続けている。生前、文太さんは「満足できる土ができたら、百姓はいつでも死ねるよ」とも話していた。夫が亡くなってから5年後の今を、文子さんはどう感じているのだろうか。「農業はね、昨日に家族が死んでも、今日、耕さないといけないの。毎日が忙しくて、今でも夫がいなくなった感じがしないんですよ」 文太さんが現代の日本社会に挑んだ「小さな抵抗」は、今でも多くの人に引き継がれ、続いている。(AERA30日より転載  西岡千史)

橋ーー拙作「実存ヒプノ」シリーズは「モモジロー」をずっと使っています( ´艸`)

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