桜を見る会・まとめ
「桜を見る会」をめぐり、政界がざわついています。招待者の選考基準のあいまいさ、予算の膨張が問題となるや、突如、中止が決定されましたが、今なお疑念が晴れたとはいえず、安倍晋三総理の後援会会員を対象とした「夕食会」をはじめ、多くの問題が議論を呼んでいます。
すでに多くの論者によって論じられているところではありますが、「桜を見る会」の一体、何が問題なのか。①「桜を見る会」の前夜に行われた安倍晋三後援会の「夕食会」、②「桜を見る会」自体の二つに分けて、私見を述べたいと思います。
前夜の「夕食会」について総理の説明は
まず安倍晋三後援会の「夕食会」について論じます。
この「夕食会」については「ホテル・ニューオータニで1人あたり会費5000円のパーティーが可能か否か」が世間の注目を集めると同時に、2013年から昨年まで安倍総理関連の後援会の政治資金収支報告書にこの「夕食会」の記載がないことが、政治資金規正法に反するのではないかという疑いが提起されています。
これに対して安倍総理は、記者会見で次のように説明しています。
「夕食会の価格設定が安過ぎるのではないかという指摘がございます。そういう報道もありますが、参加者1人5000円という会費については、これはまさに大多数が当該ホテルの宿泊者であるという事情等を踏まえ、ホテル側が設定した価格である、との報告を受けております。以上、以前すでに行った国会での私の説明を、正確に補足させていただいたところでございます」
「収支報告書への記載は、収支が発生して初めてそれは発生するんです。公職選挙法を見ていただければ明らかなんですが、それは政治資金規正法上、収支が発生して初めて記入義務が生じます。いま申し上げましたように、交通費、宿泊費等について、直接代理店に支払っていれば、これは後援会に収支は発生しません。前夜祭についても、ホテルが領収書を出し、そしてそこで入ったお金をそのままホテルに渡していれば、収支は発生しないわけでありますから、政治資金規正法上の違反にはまったく当たらないということであります。その際、事務所の者がそこで受付をするということは、これは問題ないということでございます」(首相官邸HP参照)
これは本当でしょうか。
「夕食会」について確定している「事実」
まず、「安倍晋三後援会(複数の後援会が存在しますがそれらを総称して)に収支は発生していない」という点を考えます。本年の「夕食会」について、確定している「事実」は以下の通りです。
(1) 2019年2月 安倍晋三事務所から後援会員に、「桜を見る会」の申込案内が出された(締切2月20日締切)。この案内には4月20日19時よりホテルニューオータニの鳳凰の間で会費5000円で夕食会が開かれる事が明記され、会費は当日会場で払う事となっていた。
(2)2019年4月20日 推定800人参加で夕食会が開催された(部屋は「鶴の間」に変更された。「鳳凰の間」は立食500人なので、人数が増え立食800人の「鶴の間(東)」に変更されたと思われる。こちらを参照)。
さらに総理は11月18日、記者から問われて、夕食会の総額を示す明細書はないと答えています。(朝日新聞デジタル2019年11月18日)
総理の説明から「推定」した「事実関係」
これらの「事実」と安倍総理の説明に従って「事実関係」を「推定」すると、以下の通りとなります。
まず、(1)についてです。
①2019年2月にニューオータニと安倍晋三事務所との間で「1人5000円」という値段がニューオータニの提示で決まった。
②この時、ニューオータニと安倍晋三事務所は「総額」を固定せず、「費用は5000円×来場者」と定めた(「総額」を固定すると、見込み人数と実人数が食い違った時に安倍晋三後援会に収支が発生します)。この取り決めについて、文書が作成されたか否かは不明。
③手付等がまったく支払われないまま、ニューオータニは「鳳凰の間」をおさえた(手付等を支払うと安倍晋三後援会に収支が発生します)。
④その後、参加見込み人数が増えたため、ニューオータニは会場を「鳳凰の間」から「鶴の間(東)」に変更し、やはり全く手付等が支払われないまま「鶴の間(東)」をおさえた(手付等を支払うと安倍晋三後援会に収支が発生します)。
次に(2)についてです。
①2019年4月20日、「夕食会」開催前に、ニューオータニは、代金を1円も受け取っていないにもかかわらず(見込みで代金を支払っていたなら安倍晋三後援会に収支が発生します)、来場見込みの800人+α分の、1枚5000円で宛名が白紙のニューオータニ名義の領収書を安倍晋三事務所職員に手交した(正確に800人と分かっているわけではないし、予備も必要です)。
②「夕食会」開始前の18時~20時程度の間に参加者が其々1人5000円を支払って入場し、宛名が白紙のニューオータニ名義の領収書を得た。
③入場を締め切った時点で初めて全来場者数が確定し、これにより、代金総額が決まった。安倍晋三事務所職員が代金総額全額をニューオータニに支払い、これにより支払いは終了した(この時点でニューオータニの請求額と安倍晋三後援会の支払額に齟齬があると、安倍晋三後援会に収支が発生します)。
④この時、ニューオータニは、安倍晋三後援会に総額についての計算書、受取書、領収書等を一切手交しなかった。
⑤安倍晋三事務所職員は、余った1枚5000円で宛名が白紙の領収書を全てニューオータニに返還した(すべて返還しないと脱税に用いられる恐れがあります)。
「推定される事実関係」の不自然な点
この「推定される事実関係」には、普通に考えて、極めて不自然な点が複数あります。
まず、(1)の①ですが、通常ホテルのパーティーコースは複数あり、ホテルは当然それなりの利幅のものをやろうとしますから、「1人5000円」という、後述する通り、仮に可能であったとしても、採算ラインぎりぎりか採算割れになることが必至の値段を提示するのは、考えづらいといえます。
(1)の②も、総額を固定しないホテルのパーティープランは通常考え難いものです(追加料金等の取り決めはありうるとして)。
さらに(1)の③も、800人×5000円は400万円であり、400万円ものパーティーについて手付等が一切ないことは通常、めったにありません。
(1)については、まだ程度問題ですが、(2)の①に関していえば、代金を1円も受け取っていないのに、400万円分もの宛名が白紙の領収書を渡すということは、ほとんどありえないというほど考え難く、ニューオータニがこの様な対応をしていたなら、ニューオータニのコンプライアンス上、いかがなものかと思われます(より詳しくは郷原信郎弁護士の解説参照)。
(2)の④に至っては、ニューオータニのようなホテルが、400万円もの現金を受け取って、計算書、受取書、領収書を一切交付しないという事は社会通念上、極めて考えづらく、これが「真実」であると信ずる人はいないと言って過言ではないでしょう。
もちろん上記の「推定される事実関係」の不自然さは、あくまで不自然さに過ぎず、安倍総理があくまでこの「推定される事実関係」が真実だと主張し続けるなら(主張し続けるのでしょう)、捜査権のない私や国民が、なにかできるわけではありません。とはいえ、通常行われている商取引と比較して、上記の「推定される事実関係」はあまりに不自然かつ不合理な点が多く、それが「真実でないのではないか」という疑念は消えません。
総理にとって「不都合な真実」とは
一方で、こうした疑念を安倍総理がはらすことは、極めて簡単です。
もし上記の「推定される事実関係」が真実なら、通常は(1)の②の時点で見積書・契約書が作成されるか、(2)の④の時点で、総理は受け取っていないと言っていますが、万が一、仮に本当にそれが事実であったとしても、少なくともニューオータニの側では「総額」を計算しているはずであり(400万円ものお金を受け取って、何の計算もしていないとはおよそ考えられません)、総理が求めれば、計算書、受取書、領収書等、何らかの形で総額を示す書面を得る事は容易で(ニューオータニにとっては何程の手間でもありません)、総理がこれを取得して公開すれば、いとも簡単に「推定される事実関係」が「真実」であると証明することができるのです。
にもかかわらず、安倍総理は今に至ってもそれを行っていません。その理由は何か?
考えられることは二つ。(A)そもそも安倍総理の説明自体が「真実」でない。(B)上記の説明自体は真実で、従って(1)の②、(2)の④の書類は存在するか、少なくともそれを取得する事は可能だが、これを公開すると、そこには、より一層「不都合な真実」が記載されている――です。
そして、(1)の②もしくは(2)の④に記載されているであろう「不都合な真実」が、話題となっている「ニューオータニで1人5000円のパーティーが可能か」なのです。
(1)の②、もしくは(2)の④でこの夕食会の総額と人数が確定すると、そこから1人当たりにかかった「実費用」が計算されます。もしこれが5000円を超えると、公職選挙法199条の2の「寄附」に該当し、一年以下の禁錮又は三十万円以下の罰金となってしまうのです。
極めて難しい1人5000円のパーティー
それでは、実際に「ニューオータニで1人5000円のパーティー」は可能でしょうか。この「1人5000円パーティー問題」については、立憲民主党の石川大我参議院議員が自らの事務所の宴会としてニューオータニに見積もりを依頼し、1万3127円との回答を得たと報告(石川大我議員のツイッター)しています。
パーティーの料金はオプションの付け方によってもかわるので、この1万3127円という見積もりの値段が安倍総理の「夕食会」にそのまま当てはまるとは言えませんが、ほぼ間違いなく当てはまると考えられる項目が二つあります。それは、「ビール・ソフトドリンク」の1人1800円、室料275万円を800人で割った1人3438円です(実際に使われた「鶴の間東」と同程度の広さの「芙蓉の間東中」の室料。同じ部屋ではありませんが、室料はほぼ広さに比例します。こちらを参照)
私自身、落選中何度もこの手のパーティーを行い、自分自身でホテル担当者と交渉しているのでよくわかりますが、ホテルは食事の値段については、官邸幹部が主張するように、「唐揚げを増やし」たり、究極「乾いたチーズとサキイカと柿ピーナッツだけを出す」などして比較的柔軟(?)に対応してくれるのですが、アルコール代と会場費だけは、まず値引きしてくれません(より正確には、食事代等でアルコール代と会場費を大幅に上回れば総額での値引きもありえますが、アルコール代と会場費を足した金額より値引くことはまずありません)。
この二つを足すと1人5238円となり、それだけで5000円をオーバーしてしまいます。従って、いかに唐揚げを増やす“努力”をしても、食事代が上がるだけ。ホテル・ニューオータニで、1人5000円でパーティーを行うことは実際問題、極めて困難だと思われます。
安倍総理には疑いをはらす義務がある
「桜を見る会」で用意された和菓子=2016年撮影
これについても、安倍総理があくまで「これが真実だ」と主張し続けるなら(主張し続けるんでしょう)、捜査権のない私や国民が、なにかできるわけではありません。しかし、いくら首相が主張し続けたところで、アルコール代と会場費だけで5000円を超えてしまう会場で、出席者が「盛大なパーティー」「料理は結構出ました」(デジタル毎日2019年11月14日)と記載するようなパーティーを開催している以上、その経費は実のところ1人5000円を超えていたのではないかと言う疑念は消えません。
この疑念を安倍総理が晴らすこともまた、上記の通り極めて簡単で 、(1)の②の見積書・契約書、 (2)の④の計算書、受取書、領収書を、万が一仮に本当に受け取っていないなら、今からでもニューオータニから取得して公開すればいいことですが、総理は今に至ってもそれを行っていません。なぜか。これを説明する答えはただ一つ、「『1人5000円のパーティー』は事実ではなく、(1)の②もしくは(2)の④の書類には、これと異なる事実が記載されている(記載される事になる)」しか考えられません。
繰り返しますが、「安倍晋三後援会に収支が発生していた」も「夕食会の経費は1人5000円を超えていた」も、私が提起できるのはあくまで「疑念」であって、それを立証することはできません。しかし、民主主義国家においては、為政者は国民から選ばれたことによって正当性を持つのであり、国民の疑念に対しては、適切に説明する義務があります。
しかも、上記の通り、この「疑念」は社会通念上ごく自然なものであると同時に、総理の主張が真実であるなら、極めて簡単にこれをはらすことができるものです。私は、総理が自らの主張が「真実」であると主張するなら、早期に上記の証拠をもってその疑いをはらす義務があると思います。
「夕食会」が明らかにした最大の問題
にもかかわらず、今に至るまで安倍総理はこれを行わず、与党自民党もまた、本件については安倍総理の国会での集中審議を拒否する意向と報じられています。それどころか上記の通り安倍総理は、この「夕食会」において、総額を示す明細書等は一切ないという社会通念上およそ真実とは信じがたい主張を堂々と行っています。
それはすなわち、安倍総理にも与党自民党にも、国民の疑念に対して説明義務を果たす意思がないどころか、自らのつじつま合わせの為には、どれほど社会通念上およそ信じがたく、合理性・信ぴょう性が一切ない主張をしても問題ないと思っているということです。それは、彼らにとって「為政者は国民から選ばれたことによって正当性を持つ」のではなく、「為政者は、為政者ゆえに正当性を持つのであり、説明どころか、主張の合理性・信ぴょう性すら不要である」と考えている証左であるように、私には思えます。
そして私は、「1人5000円」が真実でないなら公職選挙法違反であり大問題であることはもちろんですが、それと同時に、この「為政者は国民から選ばれたことによって正当性を持つ」という意識の欠如こそが、「桜を見る会」の前夜に行われた安倍晋三後援会の「夕食会」で明らかになった最大の問題であると、思います。
「桜を見る会」に招かれた時に感じた感慨
「桜を見る会」自体についても、同じことが言えます。
桜を見る会は、1952年の吉田首相から始まり、途中災害等による中止はありましたが、以後67年間続いてきました。2006年の小泉純一郎内閣以降、参加者はおおむね1万人だったのですが、2013年の安倍総理の就任直後の会から1万2000人に増加、その後も増加の一途をたどり、直近の2019年は1万8000人になりました。
同時に、予算は変わらないまま、実際に使った決算額が、予算額1766万円の3倍超の5518万円7000円にも膨れ上がりました。そしてそれが問題になるや、さしたる検討・議論もないまま、突如来年度の開催が中止されたのです。
この「桜を見る会」には、私も知事就任後の2016年招待されて参加しました。落選時代が長かったこともあり、新宿御苑の入り口を入った時には、率直に言って「ああ、自分もここに招いてもらえるようになったんだ」と感慨深いものがありました。
しかし、その感慨に浸る間もなく、私は見知った顔の「一団」に出会いました。自民党時代に地元の後援会でお世話になった方々です。きっと何かの業界団体や慈善団体の推薦だろうと思って(後援会の幹部をやるような方は基本的には地元の名士で、大体そういう団体の役員の一つや二つはやっているものです)、「皆さんお揃いで参加なんですね。何の会なんですか?」と尋ねました。尋ねられた人はなぜか少しバツが悪そうな顔をして、「いや、俺達はほら、○○先生の会でさ。大したもんじゃねぇんだよ」と言って足早に立ち去ってしまいました。
「議員の推薦枠」のどこが問題か
私は、「議員の推薦枠」の存在も、そこに自らの後援会の幹部を呼ぶことも、それ自体が悪いこととは思いません。様々な業界団体や慈善団体が推薦枠を持つとして、そこから漏れた「地域の縁の下の力持ち」的な人を見出し、スポットライトを当てることは、むしろ議員の仕事の一つだろうと思いますし、その際に後援会の幹部が選ばれることも、後援会の幹部をやるような人は地域で人望を集める地元の名士であることが多い以上、そうおかしなことではないからです。
当時の私には「推薦枠」はもちろんありませんでしたが、仮に推薦枠があったとしたら、私自身、非常に高い確率で、その一つを10年の落選生活を支えてくれた後援会長と奥様に当てただろうと思います。このお二人は、私がお世話になったというそれ以上に、お世辞でもなんでもなく様々な人を助けて地域に多大な貢献をしており、私がこのお二人を選んだとして、誰からも何の異論も出ないだろうと確信できたからです。
問題はそこにあるのではなく、選ばれた人自身がバツが悪い思いで立ち去らなければならないような人選が、公然とかつ大規模に行われていたことです。前述の安倍晋三後援会では、「人選」どころか、安倍晋三後援会を経由して「申込」さえすれば、誰でも「桜を見る会」に参加できたことが、他ならぬ安倍晋三後援会から送付された案内から明らかです。
私にはそれは、「公費で自らの支援者を饗応する」という以上に、「日本という国家は何によって正当性を持つのか」にかかわる問題であるように思われます。
「報われるべき努力」が報われることの大切さ
万人はもちろん平等ですが、同時に人は、人から認められたいと思い、人から認められることを喜びに感じる動物です。「人から認められる」ことは、多くの人にとって、人生をかけた努力で達成すべき目的の一つです。そして、その努力がより多く、より良い方向に向いた時に、社会全体もよくなると私は思います。
だからこそ、私達の社会は「桜を見る会」や「園遊会」そして「叙勲」で、社会の人達の努力に報いるのであり、この時、どのような努力を「報われるべき努力」として選考するかは、決して大げさではなく、その社会の価値感、方向性を端的に示すものとなります。
そして、民主主義社会の日本において「報われるべき努力」は、「国民とって有用であると、国民が認めた努力」でなければならないと、私は思います。もちろん実際の選考に当たっては、団体が推薦するにせよ、議員が推薦するにせよ、一定の客観的基準によるべきなのは当然なのですが、民主主義社会における国家の正当性は、国民にしかない以上、その根底には「国民にとって有用であると、国民が認めた努力」に報いるのだという理念があるべきなのです。
当時は、無所属とはいえ野党系の支援を受けて当選した私と話すのは、○○先生の手前都合が悪いんだろうと思っていたのですが、今思うと、あれが「自民党議員の推薦枠」であったのだろうと思います。
問われる日本という国家のあり方
翻って、今般の「桜の会の参加者急増」問題では、前述の「安倍晋三後援会経由なら申込だけでOK」や、TVで「功労は?」とコメントされた自民党議員の親族の招待などに端的に示されたように、率直に言って、「自民党にとって有用であると、自民党が認めた努力」、もっと言えば、「安倍総理にとって有用であると、安倍総理が認めた努力」ばかりが選考され、認められたと言わざるを得ないように、私には思えます。
そして、予算額と決算額の大幅な乖離(かいり)が5年以上放置されていたことは、「安倍総理にとって有用であると、安倍総理が認めた努力」にだけ報いる事を、「予算」という形で国民に示す必要性さえも感じていなかったことの証左であり、問題が表面化するや、さしたる検討・議論もないまま、「総理の決断」で突如、来年度の中止が決定されたことは、総理・官邸がこの行事を「総理の、総理による、総理の為の行事」と考えていた(考えている)ことを、別の方向から示す端的な証拠ではないかと、私には思えてなりません。
この問題を「低俗な」「下らない」問題、もしくは「招かれない人の嫉妬」などとして早期に幕引きを図ろうとする声が、政権内部や政権を支持する方々から聞こえてきますが、私はそうは思いません。
この問題は、日本という国家のあり方、日本が「為政者は国民から選ばれたことによって正当性を持ち」、「国民にとって有用であると、国民が認めた努力」に報いる民主主義国家であり続けられるかどうかの分水嶺です。真摯(しんし)で徹底した議論と疑念の解明が求められると思います。
--米山元新潟県知事。論座18日より転載
橋ーー「公私混同」の極限