「共に歩む会」の「絆の日月」
「ハンセン病問題の全面解決を目指して共に歩む会」の松下徳二会長からタイトル本「絆の日月」が届けられた。「会発足二十周年」の記念誌で百五十頁の冊子である。過去の三十四冊の会報もろくに目を通さずに来た小生であるが、深い内容に今回は一気に読了した。大まかな構成は、会員からの寄稿、「元患者さん」の回想、二十年の会の足跡、等であった。寄稿会員各位の文からも教えられる事は多かった。会の活動や、元患者さん達との交流を通して学んできた事は多い、というのがよく解った。こう書くと上から目線みたいだが、小生は発足時から会員に加えて貰いながら、何も学んでこなかった事を最初にことわり、当会との少ない関りを簡単に振り返ってみる。
鹿屋に住んで四十年に近い。社会科教師として人権問題に関心を持ち、星塚敬愛園の存在を知って、北条民雄や島比呂志氏の作品を読み、ハンセン病が感染病で無く、プロミン薬によって既に完治し、必要はないのに悪法「らい予防法」によって隔離政策が続いてきた事など授業で語って来た、僅かな知識なので短くだったが。ある時、生徒が「親戚で園に勤めている人がいるがうつらないからだよね」と言ってきた記憶がある。
「国賠訴訟」が始まって二年後の八月、熊本地裁の出張尋問が敬愛園で行われると知り、支援のつもりで出向いた時、施設職員から全員が追い出され、正門前での集会となったのは苦い思い出である。
「元患者」さんの、生徒講演を聴かせて貰ったのは二回。
二十年ほど前の有明高は、竪山勲さん。企画したのは人権同和教育担当だった。福山高校は十五年ほど前、玉城シゲさんと松下会長に講話をして貰った。自分も人権同和教育担当だったと思う。嬉しかったのはその後、女性教師が生徒数人を誘い、何度か玉城さんを訪ねて交流した事だ、自分は玉城さんの好きな梅干しを持って訪ねた事がある。十年ほど前、会の南日本文化賞受賞の祝賀会で会えた事は嬉しい思い出となっている。
記念誌に戻る。「人間回復裁判」として第一次訴訟原告となられた原告の皆さんの訴えは胸に迫った。判決の日、上野正子さんは「敗訴したら二度と園に戻れない」の決意だったそうだ。教師が希望だった現九十二歳の上野さんが今、依頼で「学校で話をする事は何よりの楽しみであり、自分の使命と思う」との御矜持・姿勢には敬服する。「歩む会」発足時の宣言文も改めて読む事ができたが、本誌編集人で同人誌火山地帯主宰の立石冨生氏の「歩む会と島比呂志」の記事も、記録として興味深く読ませて貰った。教えられる内容の多い本誌を紹介するには紙幅が無い。多くの方々に目を通してほしいと願う次第。
本年六月には「家族訴訟」も「勝訴」し、国の控訴断念によって結審した事は嬉しい限りだった。
月一度の定例会にも不参加の末端会員だが、会報だけは全てに目を通して学ばせて戴くつもりである。近日に、映画「あん」の感想も書かせて貰いたい。
--24日南九州新聞コラム掲載