コラム「骨噛み」
- 2019年10月9日
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川筋の男が泣くのは生涯一度、骨噛みの時だけだと聞いて育った信介が慈しんでくれた義母の骨噛みをしたのは離郷の時であった。五木寛之の「青春の門・筑豊編」である。遺骨の「骨噛み」は「故人に哀悼を示す一つの葬送儀式」であるとは宗教学者山折哲雄氏の説であるが解釈はご自由に。本稿は小説仕立て風に、俺とする事をご容赦願いたい。
「澄紀(すみのり)」ちゃんと出逢ったのは一九六八年。大学一年で、五歳年上の彼はバイト先の主任だった。学生の六年間あらゆるバイトをしたが一番長かったのが彼の処の外材燻蒸だった。木材団地に高く積んである材にビニールを被せて裾を土で覆う肉体労働だったが、日当九百円から始まって他よりバイト代が高かったので続けた。バイト学生達のまとめ役だった澄紀ちゃんは学生達を引き連れて飲みに連れて行ってくれていたが、後には俺だけになった。影日向無く働いていたのを評価してくれたのだと思う。
事業所の近くの酒の小売店で一角を借りて立ち飲み(角打ちという)し、それから天文館にバスで向かっていた。呑み代はいつも兄貴のおごりだった。兄貴と呼ぶようになったのは義兄弟の契りを結んでからだ、高倉健の「昭和残侠伝」を二人で観た後だったか。思想的には兄貴は保守で、平和運動のベ平連に加わっていた自分は左翼だったから反対だったのだが、正義感らしき共通点があったのだと思う。
バイト生の立場に立つ兄貴は会社の所長と対立する事もあり、飲み屋で怒った所長から空のビール瓶で殴られた時もあった。が、砕け散った瓶をよそに平然と構える剛毅さがあった。天文館で呑んだ帰り道は歩きながら歌った。兄貴が「流転」で、俺は「網走番外地」だった。卒業までの六年間、バイトでの繫がりは続いた。
結婚して離島に移動後、葉書を出したら、「こんな下手糞な字の万吉ちゃんがよくも教師になったもんだなぁ」と繰り返し読んでいた、と母親から聞いたのは彼の葬儀で、だ。
万吉は兄貴が俺を呼ぶ時のあだ名だった。〈漫画「男一匹がき大将」の主人公名である〉
母思いの兄貴は八畳の借家での二人暮らしで、顔を知らない父はフィリピンで戦死していた。その彼に本社への転勤命令が出て、拒否したところ解雇されたと後に知る。今なら不当解雇だが遠方の為に何の応援もできなかった。
健さんみたいないい体格だった兄貴はその後バイトをしていたが体調を壊し、突然、霊山へと旅立ったのは享年五十一。二十年前。一家で駆け付けた葬儀の参列者は僅か十人程。母親が涙声で言った「実の兄弟以上に仲良くして貰って。先生から、老後は一緒に暮らそうと言われたと喜んでたのですよ。でも先に逝ったのは親孝行でした」と。
火葬場で子供達に兄貴の「骨噛み」を見せた、「一心同体になるんや」と。「男は涙を見せるものじゃない。これが最初で最後の涙じゃ」とも。その後、実父の見送り、同じく骨噛みした愛妻(兄貴の骨噛みを見ていたので自分も予期してたと思う)の見送りでも涙はこらえている。ーー「南九州新聞」10日掲載















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