曽野綾子と柳美里
ヨーロッパ近代社会は絶対王政との闘いから生まれた。そして市民が一番渇望したのは自由権であった。経済活動の自由、表現の自由など。「自由権が十八世紀の人権」と言われる所以である。ところが、拡大した自由権は格差社会を増大し、弱者の人間らしく生きる権利を損ないかねない処となった。格差を是正し誰もが人間らしく生きる権利を保障すべきとの思想が生まれて波及して行った。生存権であり、「二十世紀の人権といわれる生存権」を保証する国家を福祉国家と言う。
自明の事を考えたのは「敬老の日」であった。
きっかけは曽野綾子の発言である。彼女はかつてこう述べた事がある「被災者や高齢者といった(弱者)と呼ばれる人々の甘え、そしてその甘えを当然の権利として認めてしまう社会に不安を覚えます」と。そして、こうも述べている「高齢者は、適当な時期に死ぬ義務があるんです」と。何をかいわんや、である。嫌いな作家の一人である。
理由は、小説などの作品というものは、弱者や少数者に希望を与えるべきものと、私見であるが小生が考えているからに他ならない。表現も同様である。少数者の尊厳を傷つける発言は慎まねばならないと考える。県内の某市議会におけるLGBTに関する発言は残念であった。表現の自由権より少数者の生存権が優先されるべきとの観点からである。さて曽野綾子が被災者で念頭に置いたのは原発被災者であった。柳美里氏に話を移す。
柳美里も嫌いな作家だった。彼女のデビュー作「石に泳ぐ魚」は顔面に腫瘍のある特定の女性をモデルにしたもので、人格権を否定するものとして女性から訴えられた経緯がある。表現の自由か人格権尊重かが裁判で争われ、柳氏の敗訴となり出版差し止めとなった。この裁判には大江健三郎氏も女性側に立って証言している。「石に」は読んでいないが柳氏の作品は「魚が見た夢」ほか十冊近く読んでいる。嫌いな作家も批判する為に読むのが私流である。曽野綾子も「神の汚れた手」「ある神話の背景」他読んでいる。
ところが。柳美里氏を最近は再評価し、好きになっている。
理由は、彼女の原発被災地福島県南相馬市支援である。現地のFMラジオにボランティア出演を続けていた事は氏のブログで知っていた。氏のブログに興味を持ったのは「実子への虐待」が話題になったからである。初期作品が「家族」をテーマにしていたので彼女がどんな「家族」を創っていくかに興味があったのである。その息子さんも今年晴れて大学生となった、メデタシである。彼女は南相馬に転居し、本屋さんを営みつつ、劇団を旗揚げ計画という。長渕剛と組んで高校校歌も創った。腫瘍女性のプライバシーを暴きながら、実子の父親名は秘匿し続けるなどの点に不満も持たない訳ではないし、「わがまま」と指摘した妹の観察は当たっていると思っているが、本屋「フルハウス」創設資金に千七百万のカンパ目標を達成した彼女の今後を応援したいと思っている。
橋ーー本文はひと月後くらいに南九州新聞コラムに掲載してもらう予定でいます