シベリア抑留記③抑留〈完結編〉
最初の梅林収容所では食糧支給は無く、夜、鉄条網を抜けて畑に盗みに出た。分隊ごとに小員数で、戦果は西瓜、南瓜、玉蜀黍等。そうした九月上旬、分散させられた八百名ほどの捕虜は上下二段の貨車で移送となる。炊事車両付きの貨車で不定期に黒パンとスープが腹三分ほど出た。ウラジオストックからの帰国と誰もが思っていた。しかし。太陽と反対方向に貨車が走る事十日近く、大きな海を見て日本海だと喜んだものの、停車時に呑むと真水だった。バイカル湖だ、内陸への移動だと観念した。
終着地、大陸の中心地イルクーツクに着くと、体力測定後に個人台帳が作られた。そうして製材工場と木工所の作業が日課となった。それに一週間に一度夜中に、貨車からの石炭降ろしが加わった。作業後は動けなくなる程の重労働から病死した者が多かったと後に知る。シラミにも参った。二週間に一辺の風呂ではどうにもならず、配給石鹸が無くなると木灰でシャツは洗った。次に、深夜の丸太出し作業配属となった。ある夜間、停車中の貨車に岩塩が積んである事を知り盗みに行き、戦利品を分け合ったが貴重品だととても喜ばれた。
四月下旬、ソホーズに派遣される事となり農業経験者など三十五名が移送となる。三千ヘクタールかと言われた農場での最初の仕事は大根畑の除草だった。幅一米長さ百米の除草を終えるとノルマン〈達成率〉百%だと最初は誉められたが、後に三十米の延長となった。九月になると麦の収穫。大型コンバインが刈り取ったのを集荷する作業で、大型機械には驚かされた。小麦をこっそり持って帰る事も覚えた。
馬鈴薯の収穫を終えた十月下旬で、ソホーズの仕事は終り、バイカル湖近くの収容所へ移らされた。石山での石切の仕事だった.初めは要領が解らず難儀し、石に割れやすい目があるのを知ったのは随分経ってからである。
二十二年六月、転属となり、外蒙古に通ずる道路の拡張作業従事となる。近くの山に行ってキノコを採る事を覚えた。他の隊からは毒キノコ中毒も出ていたようだが、農家育ち故、間違う事は無かった。百合の球根やサルトリイバラの実も旨かった。炙った松の実も、ヤガタと呼んでいた野苺も美味だった。この頃、内地の自宅へ葉書を出す事が許された。一回限りで、カナ書きが指定だった。数か月後に手にした父母は小躍りして喜んだそうである。
最後は雲母鉱山での採掘だった。五米ほどの縄梯子を次々に辿って百米降りるのに三十分はかかった。が作業後は登るのに一時間はかかっていた、空腹と披労からだった。
二十三年六月。早朝に突然、帰国者名発表があり、五十音順に名が呼ばれ始めた。顔の輝く者、血の気を失う者などの中、自分の名が呼ばれるまで必死に神に祈った。その後、列車でナホトカ港。何度も夢にみたダモイ〈帰国〉の船に乗ったのは渡航後実に三年八か月ぶりであった。終り
(注。抑留も原爆投下と同様国際法違反であり、五十七万の抑留者の中、死亡者は六万人に及んでいる)
【筆者より。父の記録の最後は以下の文で終っている。(今にして思えば何の為の戦争だったのだろう。あの時の悲劇を再び繰り返さない事を願って記録する)】。
最後までのお目通しに感謝します。
橋ーーコラム指定より100字オーバーの1300字となりました。本稿はお盆過ぎに掲載予定です