シベリア抑留記②出陣
九日に参戦してきたソ連軍に対し、予備士官学校生も再月九日に参編となり、勉は第三教育隊中隊に編成される。
去る二月に地中海はヤルタ島で米英ソの会談が持たれ〈ドイツ降伏三か月後に、千島列島などをソ連に渡す等を条件に〉、ソ連の対日参戦が決定していた事など知る由もない〈筆者注。ドイツ降伏は五月八日であり。敗色濃厚日本への6日、9日の無用の原爆投下はソ連の対日参戦を嫌った米国の作戦変更、との説がある〉
ソ連軍は重戦車中心の機構集団で、飛行機、戦車、自走砲主体。トラック輸送により南下してくる兵は通称マンドリンと呼ぶ自動小銃で武装しており、わが関東軍との兵力差は歴然としていた。
十日夜半、出撃命令をうけ牡丹江駅まで八キロを駆け足で向かった。貨車で愛河駅に到着し、勉の第二大隊は下車、残る甲幹第一中隊約八百名は更に前線に向かった。この隊が馬頭石で敵戦車に肉弾攻撃をし、全滅に近い戦死者を出したことは後に知る〈筆者注。自分が生還できたのは彼ら戦友のおかげと感謝を込めて父は述懐している〉。兵舎に入ると小銃弾百二十発を受領した。他にアンパンと呼んでいた三秒用の爆雷。これは、手榴弾一発に爆雷二個を括りつけて戦車に肉弾攻撃する為のもの。
そして牡丹江の支流近くにて陣地構築が始まる。流れ弾の飛び交う中、身を隠す為のタコ壺掘りと立哨を繰り返して十四日が過ぎた。十五日、勉は命令で高い寺の屋根に上って双眼鏡で敵情を視察する。すると午後過ぎて敵戦車部隊を発見。二キロ先に四、五十台かと思われる戦車部隊。亀が一列に並ぶかのように配置されていた。戦闘近し、と全員が川で体を清めた後、タコ壺に入って待機した。
ところが疲れから眠ってしまったようだ。自分の名を呼ぶ声に返事すると、「部隊は牡丹江方面に撤収したぞ。貴様を捜しにきたんだ」とY候補生の姿が。隊に追いつくべく駆け足となって彼とはぐれた。大橋を渡ったところで橋は爆破される、敵の進軍を食い止める措置で、自分達が最後尾だったようだ。ところが飛行場近くにて敵機襲来を受ける。ミシンで針の目を縫うように機銃掃射の砂煙が身近に迫って来た時は最期かと覚悟した、が幸いにも逸れ、次の反転する間に岩陰に隠れて難を逃れた。小銃で発砲したが届くべくもなかった。途中で出会ったA候補生が乾麺棒を呉れたので、道端の泥水で飢えた腹に流し込んだ。救われた気分になったのもつかの間、A候補生ともはぐれてしまった。夜になり、夏とはいえ寒い満州の地でウトウトと仮眠し、翌日また原隊を追って歩き始めた。一日遅れの追跡に焦りはあった。が、そうするうち、吾が特設歩兵連隊の居所が解り、やっと原隊復帰する事ができた。
ところが。敵部隊が近づきつつあるのに、部隊は布陣も戦闘準備もしていないのである。近くの下士官に聞くと、どうも終戦らしいとの事だった。間もなく、武装解除の為に、銃弾が一か所に集められ、無造作に山積みされて行った後、梅林収容所へ収容される身となる。〈続く〉
橋ーーまたもやルール違反!