父のシベリア抑留記①入隊
74回目の終戦記念日を迎えるにあたり、右タイトルで三回に亘って書かせて貰いたい。主人公、勉は筆者の亡父である。本稿は生前の父が書き留めていた記録を元にしたものである。が、定年後の昭和晩年頃に書かれたもので、確認法が無い為に記憶違いがあるかもしれない。
教えを乞う次第である。
父、勉が鹿屋農高を卒業したのは昭和18年である。祖父喜助は西志布志村から自転車で授業料を届けた事もあったと聞く。
翌19年10月、徴兵検査が一年繰り上げとなり、19歳で現役兵となる。繰り上げ徴兵は兵員不足を補う為の措置であった。15日、鹿児島西部18隊へ入隊するや輸送列車にて鹿児島駅から門司港へ、そして釜山へと輸送された。釜山の兵舎にいた時に、木になっているリンゴを初めて見て、買って食べた。旨かった記憶がある。数日後、貨車にて北方へと輸送される。目的地の北はソ連との国境ハイラルと思われた。鹿児島の先陣558部隊の拠点地だったからである。しかし、ハルピンあたりで南下する先陣部隊とすれ違う。同部隊と知ったのは後の事で、南方に転戦した同部隊が多くの戦死者を出したのを知ったのは戦後である。
そうして着いた免渡河にて481部隊として編成された。
最初の任務は先陣部隊撤退後の整頓だった。寒さを体感したのは便所掃除である。冷凍で小高くなった糞の塊をツルハシで壊して練兵場外に運び、雪解けを待ってそこを開墾していた。訓練で、記憶にあるのは①対戦車肉弾攻撃―爆薬を抱えて壕を出て突っ込む②実弾射撃―300米先の敵を狙うのだったが、旧い銃には癖がついていて当たりにくかった③スキー訓練―慣れずに最初は手間取った、など。
その間、衛兵や兵器員としての当番があった。屍衛兵の当番になった時、病死兵の火葬に立ち会う。夕刻に隊を出発して一里ほど離れた丘で戦友を焼いたが、死臭を嗅ぎ付けたか狼の群れが集まって来た。一晩、遠吠えと光る眼に囲まれて警戒のままに徹夜したが、火を怖れたか遠巻きにしたままの奴らは朝方になると飛散して行った。帰隊の途中、墓地を掘ったが、土が凍っていて硬かった記憶がある。
20年3月。甲種幹部候補生試験に合格し、伍長になる。特別訓練を経て、原隊へ復隊したのは五月だった。六月、石頭にあった予備士官学校に入隊し第三中隊編入となる。営庭内を三歩以上歩く時は駆け足が原則だった。訓練では①銃剣術②対戦車用青酸ガス「チビ」の使用③火炎放射器使用④黄色火薬の導火索使用による爆発⑤電爆索の実戦使用などやった。
七月に入ると、周辺で毎夜、見た事の無い信号弾が打ち上げられるようになり、戦況に大きな変化が生じたのか不気味な予感を感じるようになっていた。八月一日、軍曹に昇進。同九日の夜半、非常招集で起こされる。ソ連軍の参戦、満州侵入を報せるものだった。
翌朝、前線の状況を知る。(続く)
橋ーー本稿は、来週木の8/8日に「南九州新聞」コラム欄に掲載予定のものである。ルール違反承知で、掲載前にアップしたのはーー本日の参院選結果を途中までみて生じた怒りのなせる業であるーー-本稿読者様にはどうぞご理解とお許しを!