海人【ウミンチュ】です
亡き父は釣り好きだったと思う。夏井につれて行ってくれた時はアラカブ釣りだった。安楽川河口にアユ釣りに連れて行ってくれた時は、ヒッカケ釣りだった。西志布志の山奥で育ったので活きた魚の記憶は殆どない。学生時代はアルバイト三昧だったが、ある会社の澄紀主任と意気投合し「義兄弟」の契りを結んでからは、よく飲んだ。輸入外材の燻蒸の仕事で夜警の時、木材団地の港に浮かべてある外材に乗ってキス釣りをして、それを肴に焼酎を飲むのが楽しみだった。
やがて教職に就き、結婚して赴任したのが奄美大島の東に位置する喜界島だった。餞別代わりにと澄紀主任は一本の釣り竿を呉れた。その竿で初めて釣りに一人出かけた時の事。籠つけての遠投釣りが、喰いついた魚に竿を折られてしまった、それも二段でボキボキと。唖然とするしかなかった島の初釣り体験である。それから釣りにハマっていった。隆起サンゴ礁の島は海岸線のどこもが釣り場だった。
そのうち釣り仲間ができた。生徒の父親で十歳年上の猛さん、五歳下の哲志さんという人で二人は同じ学校給食センターで調理師をしていた。そのうち、船舶免許を取ろうという事になり猛さんと一緒に取った。それからは小型遊漁船で港沖の堤防に渡っての釣りが主流となった。籠つけてのサビキ釣りだったが撒き餌に魚の群がりようといったら水族館の魚群を上から見ているような状態の時もあった。そんなときは「入れ食い」に近い。だがアジ類は回遊するため時間勝負となる。二人の竿は長く、しなりも強い上等のもので、小生のは短く固い竿というハンディがあった。道糸にゴムを付けてハンディを克服しようとしたもののまだ弱点があった。山村育ちの悲しさ、活き魚を掴めないのだった。軍手の指を切って弱点克服を試みたもののいつか素手でつかめるようになったのは成長だろう。釣った先からクーラーボックスで首を追って「首折れ」にする技も覚えた。高い堤防だったので網は使えず、大物は狙えなかったのだが、私の竿は固かったので強引に釣り上げたのはウマヅラカワハギなど。長くて中型クーラーに収まり切れない事もあった。
ブダイは肝あえの刺身が、ムロアジは海水で煮るのが旨いという事も知った。二人や海人仲間のおかげで七年の離島滞在を延ばそうかと考えたほどだ。大隅半島に上陸して小型遊漁船を手にしたが、管理の面倒から数回で陸揚げしてしまい、夏にはそれに水を貯めてプールにしてしまった。で、子供たちは磯釣りに連れて行った。釣りの楽しさを覚えたか、二人の息子は小型船舶免許を取った。
福山港の近くに住んだ時はゴムボートでの釣りにハマった。深いのでタイやヒラメなどもあがり、そんな時は実家に運んでふるまったので親孝行のマネゴトはしたと思っている。船を転覆させた「遭難騒ぎ」も数回あった。次回にしたい。高隈山に続き、また「遭難」かって? 「そうなんです」。