高隈山遭難騒ぎ
本日4日の「南九州新聞コラム」です。ご笑読を!
鹿屋市に住む私は毎日高隈山を眺めている。初めての高隈登山は、大学山岳部入部後の「沢登り」訓練でした。沢登りとは沢(川)を上っていく登山法で地下足袋を使いました。垂水港から本城川沿いに歩き、猿ヶ城でテント泊でしたが、その時飲んだ源流水で割った焼酎の旨かった事!以来、山登りには焼酎は欠かせません。独りテントでの懐深い連峰が好きなのは旨い渓流水に出遭えるからです。山好きというよりただの焼酎好きじゃないかって。それは無し。陸羯南(くがかつなん)の語「名山、名士を出だす」を信条として全国の山を訪ね、高隈も独りで何度も泊の縦走もやりました。
教職に就き、車を持ってからは、生徒に山好きになって貰おうと誘いました。四十年前、S高生数人の時は国語科で新婚の定法先生も付き合ってくれ、猿ヶ城からの大箆柄(おおのがら)岳登山だったのですが、この時は「遭難」気分を味わされました。大箆柄岳(一二三六米)に登頂後の昼食中、みるみる頭上を雨雲が覆って天候急変です。食事もそこそこに稜線を引き返していたら雷雲が急追するように近づき、頭上から雨と、雷の威嚇(いかく)となりました。まさに「狙い撃ち」に遭ったのと同じです。落雷の危険「高い、動く、金属を身に付けている」の三条件を最も揃えた状態でした。魔法瓶など金属の入ったリュックをその場に下ろし、稜線から直降した山腹の木陰に平伏しました。大木は避雷針となって落雷を招きます、が、幾らか離れた場所は逆に安全地帯となるのです。激しい降雨の下、雷雲の去っていくのを祈るばかりで身動きできずに考えた事は。雷よ生徒に落ちるな、落ちるなら自分だ。もう一つは。このまま夜になったら間違いなく「遭難」だ。雷雲の下を一人で救助要請に降りるべきか等。懐中電灯無しの心細さの中、夕方近くに雷雲が去って下山できた時は「命からがら」の思いでした。でもその後も再びA高校の生徒達を御岳登山に連れて行きましたからコリ無かった訳です。S校時代の「遭難」騒ぎをもう一つ。組合員一同で屋久島旅に出かけた時、有志でモッチョム岳(九四四米)に登る事としました。当時は登山道や案内板も整備されて無かった為、道を見失って下山する羽目になりました。が、急峻な崖を降りられるべくも無く、川沿いに下る事としました。ところが滝に出会っては引き返すの連続となり、仲間の二人は「〇時〇分、ここを右へ下る」などの伝言紙を何枚も書いて木に括る始末。「遭難」を意識した行動を取ったのです。ようやく麓に着き、私がポケット洋酒瓶を出し生還祝いだと若手の川口先生に回し飲みしようとしたら、例のお二人は憮然とした様子で先に宿へ戻りました。ノーテンキな私に怒ったのでしょう。モッチョムの山神様(女神)も同様に怒ったのかも、私は婚期を逃し続けたのですから。モッチョムが屋久
方言で女性の秘〇を表す意味と知ったのは後の事です。