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イラク派兵とは何だったか

「私は日本を攻撃した」 サマワ元民兵、敵意と敬意

動かぬ発電所、消える成果

   6/3 共同通信社

イラク南部サマワで共同通信と会見する「マハディ軍」元兵士

 今から約15年前の2004年1月から2年半に渡り、陸上自衛隊はイラク南部サマワで人道復興支援活動に従事した。憲法9条に抵触するとの指摘もあり、国論を二分する大論争の末、「国際貢献」のために小泉純一郎政権が実施した「史上初の戦地派遣」だった。陸自を悩ませたのは、イスラム教シーア派の反米指導者サドル師を信奉する民兵組織「マハディ軍」だ。陸自を占領軍とみなし、宿営地を狙った砲撃や、陸自の車列を狙った爆弾攻撃を重ねた。学校や病院を修復し、飲料水を提供する陸自をなぜ敵視したのか。私は当時、共同通信カイロ支局員として陸自の活動を報道していたのだが、治安上の理由でサマワでの現地取材は04年3月が最後となった。この4月、約15年ぶりにサマワを再訪し、マハディ軍の元兵士たちに会うことができた。彼らは驚くほど率直に日本への敬意を語り、「米国に協力するため派遣された軍」は攻撃するしかなかったと証言した。(敬称略、サマワ共同=木村一浩)

 サマワはイラクで最も貧しいムサンナ州の州都で、人口約15万人。陸自は04年1月から06年7月まで駐留し、病院や学校、道路の修復や給水などの復興支援を行った。

 市民の多くは「日本が来なければ誰も助けてくれなかった」(非政府組織代表のマジド・アブグラリ)と今も感謝を口にする。だが支援の象徴だった大型火力発電所は部品の故障で13年に稼働を停止。支援の痕跡は消えつつある。

 4月のある夜、サマワの貧困地区の民家で、7人の元民兵が取材に応じた。みな警官や技術者などさまざまな職業に転身していた。思わず「元民兵が警官に?」と聞き返すと「地元有力者の押しがあれば大丈夫。大学の教員にだってなれる」と説明された。7人のうち2人は、駐留オランダ軍に親族を殺害された。

 ぎこちなく挨拶を交わし、取材の目的を説明した後に「あなたたちの中に、実際に陸自を攻撃した人はいるのか。いるなら攻撃した理由を聞きたい」と質問した。小太りで人なつこい笑顔が印象的なサレハ(33)は、お茶を勧めた後で「うん、私は日本の宿営地にロケット弾を撃ち込んだよ」と話し始めた。

 マハディ軍は陸自宿営地狙った砲撃を10回以上繰り返し、車列を狙った爆弾攻撃も少なくとも2回あった。陸自側に死傷者はなかったが「甚大な被害に結びついた可能性もあった」(陸自の「イラク復興支援活動行動史」による)。

陸自の宿営地はイラク軍が引き継いだが、今はほぼ無人となっていた

 当時十代前半だった最年少のアハメド(28)は「戦後復興を果たした日本はイラクのお手本。民間の支援なら歓迎された」と振り返る。警官になったメイサン(33)は「道路や病院の修復には感謝する」と話した。

 するとサレハは「私たちが望んだのは、日本の技術者の支援や企業の投資だった。だけど来たのは軍隊で、米軍と連携していた」と指摘。首都バグダッドで米兵らを殺害し、12年間服役した40歳代のサールは「米国の保護を受けてイラクに来た軍は、すべて占領軍だ。だから私は道路脇に爆弾を仕掛け、日本の車列を攻撃した」と言った。

日本が陸自派遣に踏み切った背景に、イラクへの「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(地上部隊派遣)」を求める米政府の意向があったことも、元民兵らは把握していた

 「日本は部隊派遣を米国に強制され、派遣が国益にかなうと考えたのだろう」。アハメドがそう言うと、年長のハッサン(45)は「だからといってサマワを(日米協力をPRする)劇場として使うなど許せるわけがない」と切り捨てた。鋭い目つきだった。「占領軍を受け入れる者など世界のどこにもいない」。

 「日本兵はかつて国を守るため敵と戦った。私たちも同じことをした」。ハッサンはそう言って陸自への攻撃を正当化した。アハメドは「国を守るために戦った日本兵は死んでも後悔しなかったはず。私たちも同じ気持ちだった」と言った。

 当時隆盛を極めていた国際テロ組織アルカイダも陸自のサマワ派遣を批判し、日本を攻撃対象と位置づけていた。08年4月にアルカイダの副官(現在は指導者)アイマン・ザワヒリ容疑者は、インターネットを通じて私が送った質問状に、こう回答している。

 「日本はいわゆる支援活動を提供したが、イスラムの地を侵略する(米欧など)十字軍のための宣伝の一環だった。慈善団体を通じた支援ではなく、日本は十字軍の軍事行動に加わった」。

 私はハッサンたちの言い分がアルカイダとほぼ同じであることを指摘し、「マハディ軍はアルカイダと同じ思想を持つ組織だったのか」と質問してみた。取材に同行してくれたイラク人通信員が少し戸惑いながら通訳すると、ハッサンの顔色が変わった。怒りを含んだ口調で「アルカイダとの比較は断固拒否する。罪のない人を殺すアルカイダと私たちはまったく違う」。アルカイダや、過激派組織「イスラム国」(IS)に殺された民間人には「心から同情する」と語った。

 サレハは「マハディ軍はサマワで米英軍兵士を殺害したが、日本人は1人も殺さず、負傷さえさせなかった。陸自への攻撃は日本の世論を動かし、政府への撤退圧力とすることが狙いだった」と説明した。サドル師派の上層部からは、陸自が撤退を決めた後に「撤退完了まであらゆる攻撃を停止しろ」と命令されたのだという。

 陸自派遣に携わった日本政府当局者は当時「こんな治安状況で復興支援か。やばいな」と感じたという。米軍が03年3月20日にイラク侵攻を開始すると、旧フセイン政権を守るはずだったイラク軍はもろくも崩れ、4月9日にバグダッドが陥落。5月1日にはブッシュ米大統領が「大規模戦闘終結」を宣言した。だが8月にバグダッドの国連事務所での爆弾テロでデメロ事務総長特別代表が死亡するなど、マハディ軍を含む反米武装勢力の活動が活発化し、イラクの治安はむしろ大規模戦闘終結後に悪化した。陸自のイラク派遣計画が進んだのは、その時期だった。派遣の根拠となるイラク復興支援特措法の成立は7月、自衛隊派遣の基本計画決定は12月だ。

 上記の政府当局者は「イラクでの国際協調を目指し圧力を強めるブッシュ米政権に対し、主要同盟国である日本が何もしないという選択肢はなかった」と振り返る。別の政府当局者は「安全保障上、日本にとって対米関係が何よりも重要なのは当然」と指摘し、日本が総力を結集して「イラクでもっとも安全なサマワ」を派遣先として探し出したのは「成功」だったと振り返った。結果的に米政府の地上部隊派遣要求に応じることができ、一方で陸自の支援活動は「1人も死傷せず、1人も死傷させず」に終わったからだ。

 約2時間の会見後、7人の元民兵らは全員が私と握手をした。中には記念撮影を求める者もいた。アハメドは「各国軍の中で、日本の兵隊は敵対的な姿勢がいちばん薄かった。サマワ市内の移動中にも交通ルールを尊重し、民間人の通行を優先していた。万事攻撃的な米軍や英軍とは大きく違った」と振り返り「日本の先進性と技術の高さに敬意を抱いている。読者にそう伝えてほしい」と語った。

 サマワ市民の多くは今も日本に好意的だ。「軍隊ではなく、民間の支援が来てくれればもっと良かった」(ジャーナリストのトゥルキ・マハムード)という意見もあるが「あの時期は外国の民間人が活動できる状況ではなかった。日本は迫撃弾を浴びながら最大の支援をしてくれた」(医師のアリ・アラジ)との意見もある。保健省で働くアブハッサン(22)は、左腕にカタカナで入れた自分の名前の入れ墨を見せ「サマワを助けてくれた日本を尊敬しているので、日本語で入れてもらった」と自慢した。

 日本が残した支援は、今のサマワにあまり活かされていない―。そう残念がる声を何度も聞いた。当時、支援の象徴とされたのが、127億円の政府開発援助(ODA)を投じ08年に完成した大型火力発電所だった。ところが稼働したのは4年余り。部品故障で13年1月に動きを止めてしまった。

 静まりかえった発電所の建屋に入ると、心臓部にある4つのエンジンは鳩のふんにまみれていた。「発電機が動けば騒音と高温で鳩など入ってこないのだが。もう6年以上この状態。まるで鳥の巣です」。サアド・ラヒーム所長が力なく語った。

 日本はイラク復興支援として03年から09年までに40億ドル(現在の為替で約4620億円)以上を支出し、さらに陸自サマワ派遣に700億円以上を投じた。だが陸自の活動は、インフラ修復や医療器材の提供など「応急復旧的な支援」(「イラク復興支援活動行動史」)が中心で、市民が最も実感した恩恵は、陸自による短期雇用の拡大(延べ約49万人)だった。

 発電所は「日本の経済力に見合った支援を陸自は実現していない」という市民の不満を解消する決定打のはずだった。南部を冷遇するイラク政府の政策下で部品購入や本格修理の予算は付かず、再稼働の見通しは立たない。米国やトルコ、中国の企業が発電所新設に動いている。

 ムサンナ州のアハメド・マンフィ知事は「サマワとの結びつきを再び活性化し、日本の支援で発電所をさらに大きくしてほしい。サマワに日本の領事館を開設してほしい」と述べた。

 サマワ近郊ルメイサでは陸自が拡張した浄水場が稼働中だが、陸自の残したモーターは壊れていた。ムハンマド・カリーム所長は、陸自がサマワにいたころの思い出や、陸自隊員と交わした言葉、隊員らの仕事ぶりを懐かしそうに振り返った。「私はもう退職間際だ。ここには日本の指紋が残っている。日本が関わった事業は必ず成功するはず。支援を再開してください」。ムハンマド所長はそう訴えた。

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