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コラム。


ヘーゲルが長靴を忘れたーー南九州新聞16日掲載

 ヘタな物書きのマネゴトをしていた際に、ある語がどうしても思いつかない。相方がいようものなら声かけて「あれよ、あれ。テレビを切り替えるやつ」とジェスチャーでも加えようものなら通じるだろう。独り身としては仕方なく、パソコンに訊く事にした。「テレビ、切り替え、手元」と検索したら「スイッチ」とでた。再度「テレビ、チャンネル、切り替え」で「リモコン」を教えて呉れて安堵した次第。   

 会話の無い生活で一番恐れるのは認知症の進行である。相方がいる生活なら例えケンカ相手でも、張り合いから先ず認知症の心配はないだろう。相方の存在に感謝すべし、と書いたところでヘーゲル大先生である。

およそ二百年前のドイツの稀代(きだい)の哲学者ヘーゲルは壮大な哲学体系を築き上げ、全てのものが変化する理由を弁証法論として説明した。あらゆる事物〈正〉には中に必ず対立するもの〈反〉が生まれる。その対立・矛盾が止揚されて〈合〉、高次の存在に変化するという論である。それらを動かし統括しているのは絶対精神という神であるとした。認識論から歴史哲学、法哲学まで体系として展開した論は当時の最高峰の哲学(フィロ)智(ソフィア)として、世界中から学者達が彼の大学に聴講に参じたというから高い評判の程が窺(うかが)い知れる。

その後、彼の論に反定立(アンチテーゼ)したのが現代哲学の二つ。

 一つは、世界を動かしているのは神とかの空想の産物で無く現実の人間であり、働く人間こそが歴史を発展させているのだ、と批判したのがマルクスエンゲルスの唯物弁証法で科学的社会主義理論の基礎となっている。

 もう一つが実存主義である。「壮大な体系思想なんか不要、現に今悩んでいるこの私がどう生きたらいいかを説くべし」との訴えを原点としている。  

 さて彼、ヘーゲルの青年時代のあだ名は「老人」でした。パッとしなかった訳です。五歳下で神童の名で称(たた)えられていた後輩シェリングに後れをとっていたのですが、シェリング亡き後に貶(けな)してます、彼の論をです、人物をではありません。でも「イヤー長生きってするものですね」〈笑い〉。

 さて彼ですが、ある講義に向かう際、履いていた長靴の片方を泥に取られて脱げてしまうのです。それに気づく事無く大学に到着して講義したという逸話があります。オカシイでしょ。かの大哲学者にしてチホー、認知症が入りかけていたのです。大偉人にしてそうなのですから、「もう六十九」の私も「モウロクじじぃ」と言われても気にしない事にしましょ、靴が脱げる道もいずれ通る道だと思って。

最後に彼の著「法の哲学」に「ミネルバの梟(ふくろう)は夕方から飛ぶ」という文がある。梟は知恵の象徴です。「混沌(こんとん)とした時代に見えても、必ず終焉(しゅうえん)時には哲学が正しく総括してみせる」と私は理解しています。人生もそう、正しくかつ自身に納得いく総括ができたらいいですよね

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