古稀同窓会に参加した
鹿児島島市であった同窓会に参加した。志布志高昭和四十三年度卒業で、四十名弱の参加者には五十年ぶりに会う同窓もいた。今では考えられないが当時は五十二名のすし詰め学級だった。三百名を超す同窓生で物故者が二十名近くいたのには驚く。
最初に亡師亡友に黙祷を捧げ、全員での写真を撮った後に交流会となった。後日写真が送られてきたがカメラマン久保田君が撮ってくれた写真集は笑顔に溢れていた。これ迄の人生であっただろう紆余曲折を克服し、それが笑顔として表れているのだろうと思わされた次第。
乾杯の音頭は義博君が取ってくれた。彼は大病から松葉杖生活をしていたと語った。ある日、高校同窓生の突然の来訪に驚いた彼は玄関に出向いた。その時、杖を離し自力歩行していたのに気づいたそうである。「有難きかな 同窓生」と冒頭の挨拶で話してくれ、感動を貰ったのだった。彼に依頼した永山井上両幹事の配慮には感心させられた冒頭となった。(義博君の母校愛は後に知った)。
自営業でヒプノセラピスト〈催眠療法師〉をしている小生は筆名入りの名刺を持参した。一応の返礼の為だったが使う事は無かった。余談である、高校教師は個人名刺を持たない。悪徳業者と癒着(ゆちゃく)でも生じたら就職生徒をブラック企業に送り込みかねないからである。その点、現在の政権下で、「忖度(そんたく)」の下に公務員が知人友人に利権を融通している事がまかり通っている風潮には義憤を感じている。
さて、同窓会には恩師二人が出席して下さった。国語の宮先生は現在もカルチュアスクール講師されている。もうお一人は熊本からお越しの芳尾先生。新任で赴任されて僅か三年の在職だったが生徒に大人気だった。自分を国語好きにして下さった大恩ある方で毎年獲れた玉葱を送っている。同じく熊本からは一子さん、健康食品販売を広く営んでいるという彼女は若々しかった。離婚女性達が皆、独身の華やぎを保っていたのには驚かされた。〇が湧くという自分みたいな男とは訳が違うものだ。神奈川からのみどりさんとは五十年ぶりで、中学修学旅行での事件を覚えていなかったのに残念。長崎県からの要一君とは大学以来で元気そう。秀才理恵子さんは変わらず控えめで、祐一郎君は貫禄頭となっており、工君は社会福祉協会理事長として生涯現役を願望としていた、立派である。
幹事の川野恭和君は、大口市で作陶家として艸(そう)茅(ぼう)窯(かま)を開き、大活躍中。芸術家が同窓に輩出した事は何とも誇らしい。憧れの娘だった美幸子さんはえびの市で「十兵衛の宿」なる高級温泉旅館の女将さんに収まっていた。奥ゆかしさは変わらず、可愛い人はいつまでも可愛いんだな、そう思わされた同窓会だった。キャンピングカーの愛車テントムシ号で桜島港にて一泊したが、翌朝の目覚めが快適だったのはいうまでもない。母校は今年創立百十周年である。
橋ーー本文の南九州新聞掲載は五月16か23日頃になりそうです。名前を実名でズラズラと出したのだけどいいのかしらん。いつもの小生のやり口なんだけど