カント「永久平和の為に」
「ほら、カント先生のお通りよ」で始まる、ローマ字学習の冒頭の行はトラウマとして記憶に残っている。
以下の内容だった。カント先生は毎日必ず決めた時間に散歩に出て、決めたコースを正確に歩く。町の人は先生の通る姿を見て時計代わりに時刻を知るというもの。初めてローマ字なるものを習ったのは小学六年生で、昭和三十六年だった。生意気盛りの田舎の少年は、このヘンテコな文字を小馬鹿にした。真面目に勉強しなかったのである。そのせいだ、中学ではつまずいて英語は不得意教科となった。パソコン文字はローマ字入力ができずに今でも仮名打ちだし、トラブルが英語で説明された時には一行目から頭を抱えている。
カント先生に戻る。再び彼の名に接したのは大学の哲学で、だった。英語嫌いの端緒となった彼だったが、学んで一気に好きになった。少し専門的になりますが、彼の人物と哲学思想を紹介したい。彼は病気の両親と早くに死別して苦学した。届いたばかりの新聞インクが生乾きが原因で風邪を引いた。それから病弱の体を意識して健康に注意した。散歩も生涯独身も健康の為といわれている。節制の努力で当時としては長寿の八十歳まで生きた。生涯、旅行とは無縁だったが、招いた友人達からの経験や知識を吸収して誰より博識だったという。一度だけ散歩を忘れたのはルソーの有名な教育論「エミール」を読みふけった時だと言われている。
次に,思想の一端を解り易く示したい。彼は考える、人間と野良猫ではどちらがより自由かと。勝手に生きていそうな野良猫と考えるのは大間違い。彼らは本能に拘束されて行動しているだけなのだ。人間はどうか、腹がすき、グーグー鳴ったとしても人のものは盗らない。自身の内なる理性が本能の命令を拒絶するからだ。本能に支配されない、それこそが自由である。自由が故に責任も問われる「なぜ盗ったのか」と。よって「人間こそ道徳的存在」と言えるのである。では道徳的行いの基準はどこにすべきか、と問うなら「いつでも誰でも同じ事をその時にしただろう」という「普遍性」に置くべしと説いた。彼の著作にはこんな文がある。「その事に思いを致せば致すほど感嘆し畏敬するものが二つある、一つは頭上に輝く満天の星空、もう一つは人の内なる道徳律である」と。この句は彼の墓碑にも銘されている。この句が好きな私は現役時の学級通信名を「星空」で通した。
彼には「国際平和の為に」という著もある。中で彼は、常備軍の存在は軍拡競争に繋がりかねない事、それよりも国際的平和組織を創設して外交問題を協議していく事の方が肝要だと述べ、この論は国際連盟の設立へと発展したと言われている。国際協議こそ平和の基本ととらえる時、我が国のIWC脱退は短絡的に思える、組織に留まり、粘り強く自論を主張していくべきだと考えるからである。捕鯨の町和歌山県太地町を訪ねた鯨食ファンの一人としても思うのである。
ーー11日。南九州新聞「雑草」掲載