仰げば尊しわが師の恩
- 2019年4月3日
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恩師に恵まれて来たと思う。学恩と言えば学問上で影響を受けた教師を指すが、自分の場合は人間形成上でも育まれて来たと考える。古稀を迎えんとする私が、中高大の恩師で現在年賀状を戴いている方は五名おられる。本稿で回想するのは有明中学時代の恩師である。
重山岩久先生。中一の担任で大学出たばかりの新任だった。
H大出身と自己紹介されたが、田舎の中学生には大学が何するものかさっぱり分からなかった。社会科担当で、初めの頃の授業で「有明は大隅半島、薩摩半島のどっちに属するか」との質問で全員に挙手を求められた。自分は大隅にあげたのだが、大半が挙手できなかった。その事を家庭訪問の際、驚きを持って伝えられた覚えがある。「公民」を習った時には「政党、人物のどちらを選択基準としたらいいですか」と質問した憶えがあるが、格別に社会科を好きだった訳ではない。が、熱心な指導に社会科好きの同級生は多かったように思う。
野元俊一先生。進路を決める大事な中三の担任をして貰った。数学担当であったが、一年時には「技術家庭」も教えて下さった。印象に残っているのは「種は三倍の土中に埋める」と「雄ネジ雌ネジ」である。マセた同級生が授業後に「なぜ雄ネジ雌ネジというか知っちょるか」と自慢げに話してた記憶がある。「種の植え方」は百姓見習いの今でも種植えの際に思い出している。だが、肝心の数学の方はさっぱりだった。勉強はロクにせず遊び惚けていたので成績は下がる一方となり、積み重ね学習の必要となる数学に至ってはまるでチンプンカンプンになってしまった。加えて先生が入院されて代替教師に替わられた事もあり(先生のせいにしてすみません)数学音痴になってしまった。体格も同様に許容力の深かった先生はそんな生徒を見捨てることも無く育てて卒業まで導いて下さった。
志布志高校に進学して、将来の夢を考えるようになった時、希望は中学の国語教師だった。得意教科でもなかった社会科に大学で変更した理由は、七十年安保と沖縄返還に巡り合った事による。話を戻そう。高二での担任は又もや数学教師だった。「中学の復習からやれ」と指示されてやり直し、実力テストでは百点満点の二十点から四十点台までやっと届くくらいになったのだった。
そんな数学苦手の私が、教職晩年には数学を教えもしたのだから皮肉である。進路対策として公務員補習を一人で指導した時だ。社会国語を中心に高一レベルの「数学一」も教えた。解らないのは数学教師にきいた。高等技術専門校対策補習では数学を中心に教えた。数学指導をしたと知られたら野元先生は大笑いされるだろう、社会科教師になっているのを初めて知った重山先生みたいに。仰げば尊し わが師二人である。最後に品位を落す事を承知で蛇足を。暗算は特技である。レシートの割引額合計なら瞬く間にやってのける、数学苦手とはいえ計算高いのである。ーー南九州新聞4日掲載















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