追悼・相星雅子氏(鹿児島九条の会)
真実を語り継ぐ
相星雅子
(1)特攻とは何かをご存知でしょうか。
相星雅子氏
第2次世界大戦当時は、ミサイルのようなものはなかったので、遠距離の地を爆撃するとなると、人間が飛行機で現場に行かなければなりませんでした。しかも、戦争末期になると、日本にはもうろくな飛行機は残っていなかったし、数も乏しくなっていました。 そこで考えられたのが特別攻撃=特攻でした。飛行機に250キロ500キロの爆弾を搭載して目的地へ飛んで行き、空母艦や戦艦、駆逐艦などに体当たりするのです。ですから自らも木っ端みじんに砕けるのであり、生きて帰ることはできません。日本軍はこの冷酷無残、非人道きわまりない犠牲を若者たちに求めたのでした。 沖縄まで2時間あまり、特攻機には片道分の燃料しか給油してありません。飛行機が老朽化していたし、特攻の行われた4月から6月にかけては南の海上は天候も不順でしたから、故障や航空状況を理由に引き返す者もいました。天候異変や機体故障で引き返すなら、1時間以内に戻りはじめなければ、途中の島に不時着するか海上に落ちるしかない状況でした。確実に任務を果たすために出直しを決意する者に対して、迎える側の心情態度は冷ややかでした。
特攻平和会館に展示されている零戦。 「昭和20年5月鹿児島県甑島の手打港の沖約500メートル、 水深約35メートルのところに海没していたものを知覧町 (当時)が昭和55年6月に引き揚げたもの」であるという。
(2)知覧特攻平和会館には、特攻隊の青少年たちの遺品や、出撃の前に書いた遺書や手紙が展示されています。それらの遺書や手紙には、「笑って出撃します、天皇陛下万歳」とか「皇国のために命を捧げるのは男子の本懐」「この御世に男と生まれ(天皇の)盾として散るのが嬉しい」などと、忠義心を示す勇壮な文句が書いてあります。 会館内での説明はどうでしょうか。会場に入ってすぐのところで説明用のレシーバーを貸し出していますが、例えば、突撃前の友達ふたりが話をして笑いあっている声(無論声優による再現)がレシーバーから流れ、それについて、彼らは死を前にこんなに余裕があったのだというような解説が述べられます。美しい毛筆の遺書の主については、「まだ××歳の若さで見事な字を書いている」と褒めたたえるだけ。決して「すぐれた書道家になっていたかもしれないのに、夢も未来も断たれて酷いことだった」とは言わない。ただただ、賛美一辺倒なのです。しかし、彼らは本当に喜んで、あるいは使命感だけを胸に飛んで行ったのでしょうか?決してそうではありません。私たちはいまも、彼らのたくさんの苦しみの跡を知ることができます。
相星氏が鳥浜トメさんへの取材をもとに書いた本。高城書房、1992年。
特攻の母と言われた鳥浜トメさんの経営した富屋食堂の二階座敷の柱には、無数の傷があったそうです。出撃の決まっている隊員たちの心に秘めた苦悩と焦燥が、彼らに竹刀を握らせ、力任せに柱に切りつけるという行動を取らせたのです。彼らの中には諦めきって敵機がきても防空壕に逃げない者もいたし、村の人達の証言では、闇にまぎれて醤油を貰いにきた特攻隊員もいたそうです。醤油を多量に飲むと心筋梗塞のような症状が強く出て、出撃延期となるからです。御馳走も喉をとおらなと断った隊員、国民学校に通う知覧の子らに「きみたちは戦争に間に合わなくてよかったね」と話しかけた隊員。酒を飲み軍歌を歌って心を紛らわせ、あるいは高揚させ、あるがままの率直な感情にとらえられないようにしていた痛ましい姿。いろいろな事実から彼らの味わった凄絶な苦しみが浮かび上がってきます。 よく探せば知覧の平和会館の展示物の中にも、こんな手記が混じっています。
*今年の春は、春ではあるが、我らには死んだ春だ。 *あらゆる感情を入れずに生活したい。 *夜遅く、転進の報を聞く。何回もまな板の上にあげられたり下ろされたりするのは好かない。ひと思いに殺してもらいたい。命の切り売りとはこれか。生きたくもないし、死にたくもないし。考えるのもいやだ。 *世の中にはわからないことばかりさ。おれは生きてきた。そして今も生きている。これからも生きねばならぬ。いやなことだ。死なるものがどうして恐ろしいのだろう。わからない。
特攻兵たちが寝泊まりした「三角兵舎」の復元。
*起きると、その一日がおわってしまうような淋しい気がして床の中から出られない。午後2時航空司令官川辺大将、55振武隊視察にこられる。死んでゆく身に大将が面会に来ようが乞食が来ようがなんら変わらない。 *自己の予期せぬ死は容易であるらしいが、死の期日を決められることはつらいことだ。捨て鉢な気持ちになる程馬鹿でもなければ、心の動揺を感ぜずに過ごせる程修養もできていない。一番忍耐を必要とする悪条件下に身を置いている。悲しいとか、淋しいとか、苦しいとか等の言葉では表現できるものではない。あと一週間足らずだ。曲がらぬ様静かに過ごさねばならない。
彼らは本当に苦しみました。肉体の死を迎えるまでに、何度も心に死を迎えなければなりませんでした。人間をこれほどまでに苦しめる戦争を二度とやってはいけないと思います。
(3)そんなにも苦しみながら、彼らはなぜそれを押し隠して行ったのでしょうか。
戦争を遂行するに必要な徹底した思想教育が行われた。例えば国民学校では、奉安殿とういものが設けられ、御真影=天皇の写真と教育勅語がまつられていました。習う科目はすべて天皇のしもべであるという「臣民教育」が柱でした。修身=国民道徳(臣民道徳)の実践指導を通じて皇国の道義的使命を自覚させる。国語=国民的思考感動を通して国民精神を涵養する。国史=皇国発展の跡を学び八紘一宇の歴史的使命を感じさせる。地理=国土愛護の精神を養い、東亜及び世界における皇国の使命を自覚させる。理数科=科学の進歩が国家興隆に貢献する所以を理解させるとともに、皇国の使命を考え、文化創造の任務を自覚させる。体練科=身体を鍛錬し精神を練磨して献身奉公の実践力をつけさせる。
新聞は官憲によって統制され、報道の自由はありませんでした。戦争は聖戦としてすべて正当化され、戦果が誇大に書き立てられる一方、戦禍の実態は隠され、あるいは細微なものとして小さく報道されました。雑誌その他の発刊物などもこぞって戦争を美化し、正当化し、翼賛記事を垂れ流した。少年倶楽部というような子どもの雑誌には、われらは皇国の子、鍛えよ皇国の体、僕等強ければ国強し、僕等も今に兵隊さんなどというスローガンが書かれ、巻頭言には、天皇の赤子であることのありがたさ、いま日本が正しい世界建設のために戦っていること、子どもはやがて大樹となってその使命をになう若木であることなどが、高揚した文で書かれていたのです。
日本人には「空気」に左右されやすい気質が多分にあります。「非国民」「国賊」などと言われることを恐れ、恥をかくまいとする。内心では戦争などいやだと思ってもその気持ちは、周囲や体面を気にして、発言されることはなく、それがまた「空気」をいっそう強めていったのです。
(4)特攻平和会館に欠けているもの
恒久の平和を願う者の一人として私が心配するのは、平和特攻会館では、日中15年戦争からの流れが示されず、国が若者たちを死に追いやった事に対する反省の視点がなく、ましてや、このような残酷な歴史を繰り返さないという言葉もないことです。言葉が足りないのです。特攻隊の壮烈な行為のみが切り取られているここは、まかり間違えば、再びの戦争の聖地にさえなりかねません。真実を語り継いでいきたいものです。 (以上、2012年8月11日に相星雅子氏より受け取った原稿)
投稿者 Peace Philosopher 時刻: 12:00 pm
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ラベル: In Japanese 日本語投稿, Victims of War and Terror
橋ーー相星雅子氏は設立時から「鹿児島九条の会」の代表幹事を続けてこられました。
合掌!