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蛇皮線・カンカラ三線・ゴッタン


 団塊世代である。中学校入学時に学生服を買って貰ったのが思春期への導入となったのは、学生服に小型ラジオが景品としてついていたから。喜びは、牛餌用の芋刻みや押切での草切手伝い等を苦にさせなくなった程で、ラジオから流れる青春歌謡が友となったのだった。これは退職後も、畑作業時は某民放の音楽の時間にラジオ持参の形として残っている。ラジオを友とする「ながら習慣」は高校時代も続き、深夜放送を聞きながら受験勉強のマネ事をした。今でも60年代のポップスメロディはほぼ口ずさめる。

 教職に就き、新任校で最初に買ったのが中古のエレキギターで、二校めでは新品のエレキとフォークギターを買い、同僚とロックンロールバンドを組んで高校文化祭にも出たりした。曲は「ダイアナ」とか「恋の片道切符」など。それから、結婚を機に奄美群島に赴任して奄美蛇皮線と出合った。錦蛇の本皮の感触と音色に魅せられ、民謡教室に通い始める。どこでもそうだと聞いたが教室の月謝は不要だった。指導のY先生は名手で、一年ほど経って島唄の四曲を弾けるようになった頃、教室通いを辞めてしまった。高かった蛇皮線には申し訳なかったが、招かれての宴会の付き合いが多くなったからだ。飲み方は居酒屋でなく自宅で「浴びる〈飲む、の島方言〉」のである、肴は無論釣ってきた魚だ。驚かされたのは自分と同じ年以上の殆どの男性が三線もしくはギターを弾ける事だった。理由は、戦後の娯楽の無い時代に「唄遊ビ」が唯一、男女交流の場だったからだと。もう一つは「唄半学」と言い、幼い頃から島唄で人生の教訓を学ばされたからだ、と聞いた。黒糖酒と島唄に浸かった日々は瞬く間に過ぎ、七年後離島した。鹿屋に住むようになって島出身でバイオリンの奏者宗岡洋吉師匠と知り合う。二人で組んで様々な場所に出かけては「島のブルース」など奄美新民謡を披露した。沖縄に行き「カンカラ三線」を入手したのもその頃だ。カンカラ三線とは戦後、米軍放出の食料缶を胴体にして棹を通し、落下傘のヒモや蚕糸等を絃にした三線である。社会の授業で沖縄の歴史を語る時、この三線を小道具とした。

 ゴッタンは入手して十五年程になる。十号線沿いの道の駅で見つけた。ゴッタンに興味があったのは以前に荒武タミさんの歌を聞いていたからである、一九八十年を過ぎて間もない頃。PTA研修で財部で公演を聴く機会を得た。力強く張りのある歌声にも感じ入ったが、それ以上に「先生方には教育を頼んでナ。教育の力で心の優しい子供達が育ったっでなぁ」との語りが強く響いた。幼い頃に失明してゴゼドン〈盲目の奏者〉として、「門付け」〈門前での演奏〉を稼業として生きてこられたタミさんの心の底からの訴えにそれは思われた。以来、「人権教育」に関りを持ち続けてきたが、振り返る時、いかほどの事を成してきたかと忸怩たるものがある。ーー南九州新聞3/14日掲載

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