教え子・長渕剛クンの訛り。後編
南九州新聞コラム 3/7
てつと
長渕剛は一九五六年生まれ、私は七年前の四九年生まれである。まだ戦後の混乱期である、小中時代に習い事はおろか趣味を持てた者は恵まれた一握りだっただろう。歌謡史を振り返ってみたい。ビートルズの来日は六六年で自分は高一だった。間もなくエレキブームとなる。ベンチャーズに引きずられるようにGS〈グループサウンズ〉が輩出した。一方、米国のベトナム反戦運動の流れからアコースティックギター一本で歌う反戦・反権力のフォークソングシンガーが出てくる。高石友也、岡林信康などである。そうして七十年安保の反戦運動が高まりと呼応して各地に反戦フォーク村が生まれる。広島に吉田拓郎、沖縄が佐渡山豊である。影響を受けたシンガーとして長渕はこの二人は必ず挙げている。
高校生にもギターブームは広がっていった。が、文化祭で容認されたのはフォークでエレキを使うロックバンドは禁止されていた。当初は「不良」扱いされていたのだ。初任校でフォーク部の顧問をし、二校目では同僚とバンドを組んだ。文化祭で「ダイアナ」「恋の片道切符」等のロックンロールを演奏したのは八十年を過ぎたあたりである。長渕は「純恋歌」「順子」のヒット曲を出していた。
タイトルに戻る。音楽専門誌を読んでいた時、長渕批判を見つけた。「長渕の曲はマトモな歌とは言えない」と厳しく批判した内容は「彼は鹿児島訛りのままに作っているので、音符は雨でなく飴になっている、デタラメだ」と言うものだった。おわかりか、訛りのアクセントを小馬鹿にしていたのである。書いてた評論家は忘れた。が頭に血が上った。その専門誌を授業に持ち込んで吠えた。「前後を聞けば、雨と飴の違いは判る、意味も通じる。鹿児島弁をバカにするな、標準語が何だと言うんだ」と。「標準語が何するものぞ」との怒りは消える事無く、自分なりに長渕擁護を語ってきたつもり。彼が反骨路線を歩いたのはご承知だろう。
長渕の持ち歌はほぼ歌える。バンダナとサングラスつけての長渕スタイルで文化祭に出た事もあるファンの一人でもある。だが。
教師として自分の授業が彼の思想形成に影響を与えたかと問われると?ーー。「静かなるアフガン」で反戦を歌い、安保法制成立時には「自衛隊を戦場に送るな、死傷者を出してはならない」との彼のスタンスは自分と同じだぞ、と鼻を高くしたい気はある。が、それは彼が後に身につけたに違いない。よく聞かれるのは「彼のコンサートに行った事はありますか」だ。「無いさ。教え子だぞ、招待状が来たら行ってやる」と放言している。
彼のステージを見る事は無くとも生ステージを見たいシンガーがいる、エラブチ剛クンである。財部出身の彼は長渕のモノマネでは日本一だろう。動画配信を見ればわかる、歌はうまいし観客のノセ方も抜群である。興行を企画の方、彼を招いてみませんか。ソンはさせませんよ〈と思います〉
橋ーーパソコン修理のため、10日ぶりの更新でした。ごめんなさい