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教え子・長渕剛クンの訛り


 橋 てつとーー南九州新聞2/27掲載

 長渕剛クンとは鹿児島県出身の有名シンガーである。今迄活字にした事はないが、彼も還暦を過ぎたし当方も古稀目前である。ここらで活字化しようと思った次第。彼との交流はないことを最初にことわっておきます。

 彼は最初の教え子になる。昭和五十年、教職採用試験に合格はしていたものの正式採用は無く、翌年の受験を考えて、有明の実家で茶摘みの手伝いをしていた五月、県教委から病休代替の講師委任の呼び出しが来た。そして鹿児島南校で、二年の倫理を八クラスと三年の政経一クラスを教える事となった。

 彼のクラス三年八組、情報処理科は県立に新設されての二期生で、全県下から優秀な生徒が入学してきており、雰囲気のいいクラスで仲良しになった。ロングホームの時間に誘われて一緒にソフトボールを楽しんだり、クラスの生徒二人を連れて高隈山にテント泊りの登山をしたこともある。長渕の授業の印象は薄い。格別デキた方でもなく、現在の精悍さも無く痩せてひょろっとしていた。が、モてるようなハンサムなフェイスで、実際モテていたと聞いた。

 十一月、病休の先生が復職予定となって退職が近づいた頃、全校持久走大会が県立競技場であった。十キロ走に自分も出た。順位は覚えてないが登山の為のランニングはしていたのでまあまあだったと思う。走り終えたところにやってきたのが八組リーダー、タケシだった。息を弾ませながら彼が言った「先生、ゴメン。計画をやれんかった」「どうした」「先生が離任と知ってゴールで待ち受けて、みんなで餞の胴上げをするつもりだったのにできんかった、先生が予想外に早かったからだ」。その場に長渕がいたかの記憶はない。その直後の文化祭でタケシは長渕と「タケシ&ツヨシ」の名でフォークソングの発表したと聞いた。

 北九州の大学に進学していたと聞いていた長渕の話を耳にしたのは数年後だ。自分は教職に就いていた。彼の同級生と天文館で遇って立ち話となった。「彼は大学を辞めたらしいですよ。歌手を目指すからと」「思い切ったなぁ」「担任の先生も心配してたそうなんですよ。芸能界は浮き沈みが激しいからと」。浮き沈みという語が強く残った。

 その後、長渕の話は聞かなかった。一度だけラジオでデビュー曲「雨の嵐山」を聞き、裏声の綺麗さからこの路線で行くのかと思ったのを憶えている。

「おっ、長渕が売れ始めたぞ」と素っ頓狂な声をあげたのは、若き同僚の家だった。見ていた週刊コミックの巻末の芸能蘭で注目の新人に彼の名前を見つけたのである。もう一人挙げてあったのは永井龍雲だった。龍雲の母は大島郡瀬戸内にルーツを持つ。奇しくも鹿児島ゆかりの二人が注目のルーキーとして脚光を浴びたのである、喜ばない訳がない。「純恋歌」「順子」と続けてヒット曲を出し、メジャーへの階段を登ろうとしていた長渕だが、その時、卑劣な罠が仕掛けられたのである。〈続く〉

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