top of page

俳句と戦争ーー南九州新聞2


俳句と戦争

                   橋 てつと

 私の菩提寺は志布志の金剛寺である。近くには俳人種子田山頭火の「秋の空高く 巡査に叱られた」の句碑がある。旧有明町出身の私が志布志高校に進学する時、志布志町内に保証人を立てる必要があり、祖父が頼んでくれたのが金剛寺暉峻康民住職だった。高校時には住職と拝顔の機会は得ず、康民住職の講演を聴いたのは就職後である、昭和五十年代前半だ。志布志湾開発構想に反対して「志布志湾公害を防ぐ会」を立ち上げ、その指導者に立っていたのが医師であり俳人でもあった藤後左右氏と、康民氏だった。教組主催の講演会で、住職は開発を止める必要を熱く語られたのだった。間もなく祖父は他界したが、実家に来られた住職が葬儀後に囲炉裏の前に座って言われた一言が強く印象に残っている。

「爺さんと婆さんは二人で囲炉裏を囲んで、自分の作った米や野菜を毎日食べてたのじゃろ。貧しい生活と考えるのは大間違いじゃよ。これが極楽浄土の生活よ、幸せ者としての大往生なのじゃ」と。

 父康民氏の後に住職を継がれたのが康瑞氏である。だが自分は転勤族で郷里を離れており、寺門を潜る事は無かった。 

 康瑞氏の話を耳にした事が一度ある。東京で、所属する全国文芸同好志の集団「全作家」の会合に出た時だ。文芸評論家の大河内昭爾氏が会の顧問だった。武蔵野女子大学長をされ、週刊読書人と文学界で評論担当されていた先生が都城出身と知り、自分は志布志ですと名乗って面識を得た。その時、菩提寺は金剛寺と言うと、私は暉峻康瑞とは親戚筋になるのだと喜んで下さった。後日には都城の「緑陰読書会」でも挨拶の機会を得ている。同郷の文学徒を心にかけて下さったか、二千四年度の下半期同人雑誌奨励作として推して下さった。一席は後の芥川賞作家西村賢太氏だった。そんな恩義からご逝去の際は全作家季刊誌に追悼文を書かせて貰っている。さて。初めて康瑞住職と話をさせて貰ったのは父の葬儀の後だ。山頭火の話が出たので、山頭火を書いた拙作「単独行」をお送りしたところ、すぐに自著「悪人正機」が送られてきて俳人と知った。以後、拙作を送る度に礼状には自作の句が添えてあった。電話で誘われたのが金子兜太氏の志布志西光寺での講演会だ。三年前である。山頭火入門書を著している金子氏だ、喜んで出かけた。トラック島での海軍兵体験から平和憲法を守る事の大切さを訴える内容だった。俳句は一例。埼玉は公民館での秀句「梅雨空に九条守れの女性デモ」が、政治的との理由から慣行を曲げて広報に掲載されなかった理不尽さを挙げ、「表現の自由の抑圧から戦争が始まる」と結ばれた。この問題は裁判となり昨年末、作者側の勝利、掲載へという決着を見ている。

 今年の康瑞氏からの年賀には「基地はいらない沖縄の苦瓜光出す」の句があった。八十一にして益々気骨輝く「荒凡夫〈兜太氏の境地ーー自在な求道者とは私の解釈〉」に見習いたいと思った年明けだったーー2/21掲載

Recent Posts
Archive
bottom of page