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南九州新聞掲載随筆①2/14


ある恩師のこと 〈1196字〉

            橋 てつと

私は今年には古稀を迎える団塊の世代である。旧西志布志村に生まれた。当時の有明中学は四クラスであった。志布志高校に進学したのは昭和四十年、六学級の時である。担任は蓬原出身の理科の先生だった。高校に入って驚いたのは先生に敬語を使う同級生がいた事だった。今から振り返れば当たり前なのだが、中学時代は先生と友達みたいな鹿児島弁でやりとりしていたのだから丁寧語すら使えない身上。カルチュアショックに近い驚きから教師に対して寡黙になった。自信をつけてくれた教師が高一で国語を担当して下さったI先生である。授業で印象に残っているのを二つ紹介します。「学問は何の為に、誰の為にするのか」という評論を学んでいた時、君たちはどう思うかと全員に挙手を求められ、多くが自分の為に,だったのであるが、私はなぜか「社会の為に」に挙手したのだった。その時目があった先生が頷かれたような記憶がある。自分に社会性が芽生えたのはこの時なのだろう。もう一つは誰か外国人登山家の山行記だった。岸壁ビバークの様子を想像して絵に書きなさいという展開で、私の絵を見た先生が「ユニークでいいね」と褒めて下さった。三年後に大学山岳部に入るとはその頃、想像もしなかった。授業内容では褒められていないのだが国語教師になる夢はこの時目覚めに違いない。だが大学入学後には変節して社会科教師になる事になるのだ。先生には三年間、文芸部問として面倒を見て貰った。早熟で文芸の片鱗を見せる女子生徒に比べて自分は何と幼稚な詩や随筆を書いていた事かと当時の文芸部誌「奔流」を読みなおせば顔から火が出る思いになる。先生が部活に俳人藤後左右先生を招かれて、指導を受けた記憶もある。

 五十年後の現在、自分が日本ペンの末端に名を連ねて創作のマネ事を続けておられるのも高校時のご指導があってこそ、と深く感謝している次第である。同じ高校教師という職に就きながら、先生を排顔の機会は一度もなく、年賀を差し上げるのみだった。

 驚かされたのは二千十二年の先生からの年賀だった。いつもの先生の丁寧な直筆の横に、ご息女の「十二日に亡くなりました」と添え書きがあったからである。

 自分が退職して一年目だった。が、非常勤講師を週に三日勤めていた。時間ができたら同じ鹿屋市にお住いの先生を訪ねて高校時のご指導と今までのご鞭撻に感謝を申し上げるつもりでいたが叶わなかったのである。松の内が明けて間も無く御宅を訪ね、ご霊前にご焼香させて貰い、感謝の意を伝えた。ご息女が「言い訳を許さない厳しい父でした」とおっしゃったのには驚かされた。高校時は温厚な紳士然とした印象だったから。「厳しかったのはお子様たちへの強いご期待、それが厳しい愛情として出ていたのですよ」と申し上げて辞去した。色んな期待の方法があるのだ、つくづくとそう思った。石倉光雄先生、九十一歳の御成仏だったそうである。

橋ーーフォトは旧いものです。ごめんなさいむ

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