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辺野古再四


沖縄、不屈の歴史 ハンストは権力への意思表示

   毎日デジタル 1/19(土) より転載

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設の賛否を問う県民投票(2月24日)の実施を5市が拒否していることに抗議し、「『辺野古』県民投票の会」の元山仁士郎代表(27)が15日から宜野湾市役所前で続けているハンガーストライキ(ハンスト)。絶食による体を張った意思表示だが、沖縄では戦後27年間の米国統治時代から現在に至るまで、民衆が非暴力の手段で米軍の圧政や基地問題などの政治的な課題に抵抗してきた歴史がある。 「沖縄の先人もいろいろな手段で抵抗し、権利や土地、暮らしを守ってきた」。元山さんは、県民投票を「実施しない」と表明した宜野湾など5市の市長に再考を求め、15日朝から水だけを口にするハンストを始めた。  沖縄の抵抗の歴史は長い。沖縄北部の離島・伊江島では1955年、武装した約300人の米兵が集落の家や畑をブルドーザーでならし、火を放って演習場用地として奪った。戦後に長く米国統治下に置かれた沖縄では、こうした「銃剣とブルドーザー」による米軍の土地の強制接収が各地で展開されていた。  生活の糧となる農地を奪われた伊江島の島民は、後に「沖縄のガンジー」と呼ばれた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さん(故人)を先頭に、55年7月から沖縄本島をむしろ旗を掲げて歩いて回る「乞食(こじき)行進」で約7カ月かけて窮状を訴えた。非暴力の訴えは共感を呼び、米軍の土地の強制接収に抗議する大規模な「島ぐるみ闘争」へと発展した。  当時の資料を展示する伊江島の「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)の家」の謝花(じゃはな)悦子さん(80)は「(県民の4人に1人が亡くなった)沖縄戦を経て、平和な沖縄を子供に残したいという願いや大人としての責任が、抵抗の背景にあった」と振り返る。  57年1月に那覇市長に就任した瀬長亀次郎さん(故人)も沖縄の「不屈のシンボル」として語り継がれる。米軍の基地拡張に反対した瀬長さんは、逮捕や市長当選後わずか11カ月での公職追放など米軍の圧政にさらされながらも、ユーモアを交えた演説などで反基地運動の先頭に立つ姿が圧倒的支持を集めた。  瀬長さんの資料を展示する那覇市の「不屈館」の館長で次女の内村千尋さん(73)によると、瀬長さんも本土への渡航制限撤廃を求めてハンストに取り組んだことがあったという。内村さんは「沖縄の人たちは常に、理不尽なことに抵抗したり、声を上げたりすることで、民主主義や権利を勝ち取ってきた」と語る。  72年の本土復帰後も沖縄では、米軍による事件・事故や、教科書の記述などを巡る政治的課題に抗議するため、数万人規模の県民大会などによる抗議が繰り返されている。内村さんは言う。「なぜ若い彼が今回そこまでやらざるをえない状況になってしまったかを、5市長だけでなく、日本の多くの人たちに考えてほしい」【遠藤孝康、比嘉洋】  ◇沖縄の抵抗の歴史 1945年6月  沖縄戦が終結  55年7月  米軍の土地の強制接収に対し伊江島の島民が窮状を訴える「乞食行進」を開始  56年7月  土地を守る四原則貫徹県民大会に約15万人が参加  57年11月  反基地運動の先頭に立っていた瀬長亀次郎那覇市長が米軍の布令によって追放  71年5月  沖縄返還協定に抗議する県民大会に約10万人が参加  72年5月  沖縄が本土復帰  95年10月  米兵3人による少女暴行事件に抗議する県民大会に約8万5000人が参加 2007年9月  沖縄戦の集団自決を巡る文部科学省の教科書検定意見の撤回を求める県民大会に約11万人が参加  12年9月  米軍機オスプレイ配備に反対する県民大会に約10万1000人が参加  16年6月  元米兵による女性殺害事件に抗議する県民大会に約6万5000人が参加

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