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ノーモア・広島、長崎


昭和20年(1945年)8月9日、一発の原子爆弾が、 長崎を焼き尽くし、7万4千人が死亡しました。

この写真を撮影したのは、占領軍として長崎に入った 米海兵隊オダネル軍曹。

彼はアメリカに帰国し写真は封印。

家族にも隠してきたのです。

67歳になった43年後この写真を公表すると決断しました。

~オダネル氏本人のコメント~

佐世保から長崎に入った私は、 小高い丘の上から下を眺めていました。

すると白いマスクをかけた男たちが 目に入りました。

男たちは60センチほどの深さにえぐった 穴のそばで作業をしていました。

荷車に山積みした死体を、石灰の燃える穴の中に、 次々と入れていたのです。

10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。

おんぶひもをたすきにかけて、 幼子を背中に背負っています。

弟や妹をおんぶしたまま、 広場で遊んでいる子供たちの姿は、 当時の日本でよく目にする光景でした。

しかし、この少年の様子は、 はっきりと違っています>>>

少年からは、重大な目的を持って この焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。

しかも裸足です。

少年は焼き場のふちまで来ると、 硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。

背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、 首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分あるいは10分ほども 立っていたでしょうか。

やがて白いマスクの男たちが、おもむろに近づき、 赤ん坊を少年の背中から受け取りました。

そして、ゆっくりと葬るように、 赤ん坊を、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

幼い肉体は、焼き場の中で、まばゆいほどの炎を立たせ、 その炎は、さっと空中に舞い上がりました。

真っ赤な夕日のような炎は、 直立不動の少年の、まだあどけない頬を 赤く照らしました。

その時です。

炎を食い入るように見つめる 少年の唇に血がにじんでいるのに、気づいたのは。

少年があまりにキツく噛みしめているため、 唇の血は流れることもなく、

ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。

夕日のような炎が鎮まると、 少年はくるりときびすを返し、 沈黙のまま…

焼き場を去って行きました。

橋ーー私は長崎の被爆二世です。二度と惨劇を起こさせないために、生ある限り

反戦護憲のスタンスで微力の限りを尽くしていこうと思っています。勿論、反原発もで

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