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イラク日報偽装


わざと探さなかった可能性

 防衛省が「存在しない」としていた陸上自衛隊のイラク派遣の際の活動報告書(日報)が見つかった問題は、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)の日報隠ぺい事件と重なり、底無しの防衛省不信を呼び込んでいる。

小野寺五典防衛相は、今年1月に日報の存在を確認し、自身が報告を受けたのは3月末と説明したが、わずか2日後、日報の存在は1年前の3月27日に確認されていたことを明らかにした。

 日報を探すよう命じられた陸上自衛隊は、その存在を1年近く防衛相に報告しなかったことになり、政治が自衛隊を統制するシビリアンコントロールに赤信号が点いた。

なぜ、発見した昨年3月の時点で報告しなかったのか。山崎幸二陸上幕僚長は5日の会見で「国会で問題になっているとの意識はなかった、との報告を受けている」と述べ、隊員が無自覚だったことが原因と説明した。

 この説明にはまったく説得力がない。

昨年2月20日、当時の稲田朋美防衛相は野党の質問に対し、「(イラク派遣の)日報は残っていないことを確認した」と答弁し、その2日後の22日、省内でイラク日報を探すよう命じている。

 「ない」と答弁したのち「探せ」ということ自体、後先の順番が逆転しており、答弁が虚偽だったか、デタラメだった疑いが残る。

陸上自衛隊幹部によれば、「国会で委員会が開かれる前日に質問通告があり、とりあえず陸上幕僚監部と統合幕僚監部の運用部門だけを調べて『残っていない』となり、稲田氏がその通りに答弁した」という。

 程度の調査で国会答弁が行われていることにまず驚かされるが、それでも稲田氏は答弁した後に調査を命じており、この指示を受けて陸上自衛隊すべての部署で調査が行われた。その結果、3月10日に「やはり日報は残っていなかった」との報告が稲田氏に上げられている。

 一方、3月17日には南スーダンPKOの日報をめぐる特別防衛監察が始まり、再度の捜索によって、陸上自衛隊研究本部でイラク派遣の日報が見つかった。しかし、稲田氏ら政務三役に報告は上がっていない。

報告しなかった理由について、山崎陸幕長は「南スーダンPKOの調査だったため、(隊員が)対象外と認識した」と述べた。イラク、南スーダンPKOという2つの日報捜索が同時進行していたにもかかわらず、後から始まった特別防衛監察に気を取られ、先に捜索を始めたイラク日報の報告を忘れたとすれば、隊員はニワトリ並みの頭ということになる。

 これまでのところイラク日報が見つかったのは研究本部、陸幕衛生部、国際活動教育隊の3カ所である。

 研究本部は、日報をもとに次の派遣に備えるための「教訓要報」と呼ばれる教訓集を作成し、全国の部隊に配布する役割がある。国際活動教育隊は全国から部隊を集め、「教訓要報」を反映した海外活動の訓練を行う部隊である。

 日報の捜索をするならばピンポイントで研究本部が対象となり、次には国際活動教育隊となるのが自然だが、なぜそうしなかったのか。探せば見つかるのが確実なところを探さなかったのだとすれば、故意に避けた疑いが出てくる。

イラク日報は触れるべきではないタブーなのだろうか。

公表したくない「ある事実」

 陸上自衛隊が派遣されたイラクは「停戦の合意」がなければ派遣できないPKOとは異なり、米軍と武装勢力が戦闘を続ける「戦地」だった。

巻き込まれることがないよう政府は派遣先を「非戦闘地域」とし、隊員600人をイラク南部のサマワ市に送り込んだ。

 「非戦闘地域」だったにもかかわらず、2004年1月から06年7月まで2年半の派遣期間中に、13回22発のロケット弾が陸上自衛隊のサマワ宿営地に向けて発射された。

うち3発は宿営地内に落下、1発はコンテナを突き破っている。不発弾で炸裂はしなかったものの、常に隊員は命の危険にさらされていたことになる。

 宿営地の隊舎・宿舎はテントからコンテナに替わり、コンテナの屋根と壁には土嚢が積まれて要塞化した。防御が固まると、隊員は不用な外出を避けて宿営地に籠もった。

2 005年6月23日には、前後を軽装甲機動車で警護された高機動車2台の自衛隊車列がサマワ市を走行中に、道路右側の遠隔操作爆弾が破裂した。高機動車1両のフロントガラスにひびが入り、ドアが破損した。

 爆発直後に、軽装甲機動車の警備隊員らが車載の5.56ミリ機関銃を操作して弾倉から実弾を銃内に送り込み、発射態勢を整えた。移動中だった隊員約20人は武器を所持しており、そのうち何人が実弾を装てんしたのか判明していないが、犯人が銃などで襲撃していれば、撃ち合いになった可能性がある。

防衛省は、ロケット弾攻撃を受けた回数も、実弾装てんの事実も、ともに発表していない。上記の事実は、当時私が取材し、東京新聞・中日新聞に掲載された。

またイラクに派遣された陸上自衛隊5600人のうち、15年6月までに自殺した隊員は21人にのぼる。派遣に際し、精神面で問題がないことを確認し、活動期間もPKOの半分の3カ月と短かったにもかかわらず、彼らは在職中に自らの命を絶った。

 医師であり、隊員だった2佐の医官はイラク人に医療指導をする一方、隊員の健康を管理する立場だった。帰国後、不眠を訴えるようになり、自殺。警備隊長だった3佐は帰国後、日米共同訓練の際に「米兵に殺される」と叫んで錯乱、後に自殺した。3佐の地元部隊では、「部下が米兵から誤射されそうになった」、「米軍と撃ち合った」など、さまざまな噂が飛び交った。

 防衛省は自殺者の階級、任務、原因などの一切を「プライバシーの保護」を理由に公表していない。

今回見つかった日報は延べ408日分、1万4000ページに及ぶ。内容はまだ発表されていないが、この中に、このような自衛隊攻撃の全貌や隊員の自殺につながる事案が記載されている可能性がある。

撤収に際して会見した当時の小泉純一郎首相は「このイラクに対して行った様々な措置、正しかったと思っています」(2006年6月20日)と述べ、イラク派遣を成功と位置づけている。

「成功の誉れ」を根底から揺さぶる事実が日報に書かれているとすれば、公表をためらったとしても不思議ではない。

政治家への「深い不信感」

小野寺防衛相は「大きな問題であり、大変遺憾だ」と述べ、また南スーダンPKOとイラクの2つの日報を隠された稲田前防衛相は「非常に驚きと同時に怒りを禁じ得ません」と述べ、ともに陸上自衛隊を批判した。

 一義的には陸上自衛隊に問題があるのは言うまでもない。しかし、政治家は自衛隊に無茶な要求をしてこなかっただろうか。

政治家の冷淡ぶりは、イラク派遣の前から隊員たちを悩ませてきた。イラク特別措置法は2003年7月に成立したにもかかわらず、10月に衆院選挙を控え、イラク派遣を争点にしたくない首相官邸は準備指示を出さず、防衛庁(当時・現防衛省)は立ち往生した。

準備指示とは、海外派遣の際、自衛隊最高指揮官である首相が発する「命令」に当たる。明文化された規定ではないが、首相によるシビリアンコントロールを確保する上から、それまでの海外派遣では例外なく出されてきた。

同年10月17日、当時の福田康夫官房長官から「防衛庁でできることをやればいい」と突き放され、自衛隊はこの日からできる限りの準備を始めた。

しかし、財務省は「防衛庁が勝手に始めた派遣準備」とみなし、補正予算の編成を認めなかった。

 その一方で小泉首相は米政府に「年内のイラク派遣」を約束、防衛庁は予備費をやり繰りして物品調達を開始、北海道旭川市の第2師団では派遣要員の選定が始まった。「なし崩し」のうち、イラク派遣は動き始めたのである。

 当時、陸上幕僚長だった先崎一氏は全隊員の帰国後、私の取材に対して、陸上自衛隊が死亡した隊員の「国葬」を独自に検討した事実を認め、「隊員の死には当然、国が責任を持つべきだと考えた」と心情を明かした。

先崎氏の言葉からは、「政治家は自らの立場を優先させて自衛隊のことは考えない」という不信感がうかがえた。

イラク派遣を通じて、自衛隊員の間で「シビリアンコントロールは、あてにならない」という恐るべき教訓が残されたのである。

 イラク派遣に際し、「殺されるかもしれないし、殺すかもしれない」と話し、隊員に覚悟を求めた小泉首相は、イラクの陸上自衛隊を1回も訪問しなかった。ブッシュ米大統領は2回、ブレア英首相は5回、韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は1回、いずれもイラクを訪れ、自国の兵士を激励した。閣僚の訪問はさらに多い。

サマワ宿営地を訪問した日本の閣僚は防衛庁長官2人だけ。2人とも派遣期間を定めた基本計画の期限切れ直前に訪れており、派遣延長を決めるために必要な事務的訪問に過ぎなかった。

「シビリアンコントロール」以前の問題

 稲田氏が防衛相在職中に国会や選挙応援演説で失言を繰り返し、訂正に追われたのは記憶に新しい。

 防衛省には政治任用の補佐官制度があり、事務方トップの事務次官より上に位置して大臣を直接補佐するが、稲田防衛相のもとでは空席だった。補佐官の下にはやはり政治任用の参与が3人いたが、3人とも稲田防衛相のもとで辞任し、こちらも空席。

補佐官、参与とも不在という異常事態のまま、稲田氏は防衛相を辞めている。

 シビリアンコントロールを活用できなかった稲田氏が今になって、シビリアンコントロールの不在を主張するなら、まず自ら反省しなければならない。

また一方で、陸上自衛隊の指揮命令系統では枝葉にあたる研究本部や国際活動教育隊に日報が残っているのに、なぜ幹にあたる運用部門に残っていないのだろうか。

次の海外活動に備え、活動を企画・立案する運用支援課などの運用部門にとって、日報は宝のような第一次資料である。「残っていない」のではなく、「残さなかった」と考えなければ、つじつまが合わない。半田滋 日経新聞4/6

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