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日本語の消滅・日本国の消滅


英語優位の愚民政策 知らずにだまされ チチンプイプイ

先日、トランプ米大統領が来日した。日本人以上に日本語と格闘してきた米国詩人、アーサー・ビナードさん(50)は何を感じたのか。滞日27年の経験から、今はっきりこう言える。「日本人は間違いなく変わってきた。僕の目から見れば悪い方へ」。どんなふうに?

 広島市の自宅からちょくちょく上京するが、東京都内は自転車で回る。自宅の留守番電話に取材依頼の伝言を残すと、しばらくして公衆電話から応答があった。「今、東京を自転車で移動中なんです」。携帯電話を持ったことがない。不便では?と聞くと、「僕なりの抵抗、拒否運動なんです。米国人もそうだけど、日本人は生まれた時から広告を浴びせられている。昨日久しぶりに電車に乗ったら、気持ち悪くて。今は中(なか)づりだけでなく、画面で広告を流し、僕が一切興味のない、買いたくもない物を見せられる」。ここで言う「広告」とは宣伝だけではなく、わかりやすくまとめ上げられた「ニュース」も含んでいる。

ビナードさんは理屈より直感を大切にする。日本との縁もそうだ。ひょんなことからイタリア語とインドのタミル語を現地で学んだ末、米国の大学で英文学の卒論を書いていた時、たまたま漢字を目にした。22歳。「強いウイルスが体内に入り込んだような衝撃」を受け、すぐに百科事典で中国語と日本語を見比べた。中国語は石畳のようにびっしりした印象だったが、日本語は「クネクネ道」のようで、そのごちゃごちゃ感に引き込まれた。卒業式も待たずに来日し、以来、詩歌、落語などあらゆる日本語を人並み外れた努力で吸収し、詩やエッセーで数々の文学賞を受けてきた。

 そんな「直感の人」は今の日本をどう見るのか。例えば最近のトランプ米大統領の来日劇。

 「そもそも来日に意味があるかを冷静に考えた方がいい。トランプ大統領がハワイから米軍の横田基地に降り立ち、銀座でステーキを食べ、ゴルフをしたことに意味なんてあるのか」

 安倍晋三首相とトランプ大統領の親しげな映像が流れたが、「パフォーマンスに意味はない。大事なのは、日本政府は買えと言ったものを武器でも何でも買ってくれるとトランプ政権が受けとめたこと。見返りのように、トランプが去った後、今度は米軍と自衛隊が合同演習をして『北朝鮮をけん制』と報じていたけど、けん制できたかなんてわからないよ。それを『けん制』と言い切るのは広告でしょ。僕らは思考停止のまま、そんな結論をのみ込み導かれていく」。

どこへ。「日本はやはり属国なんだ」という達観へ?

 大好きな宮沢賢治の詩など美しい日本語がいつまでも残ってほしいと願うビナードさんにとって一番の気がかりは日本語の衰退だ。「言語の延命には二つの条件がある。民族のアイデンティティー、平たく言えば自国に根づく心と、その言語による経済活動です。でも日本ではいずれも弱まっており、日本語は消滅に向かっている」とみる。

 経済が日本語をどう衰えさせるのか。「来日以来、経済を語る言葉が劇的に英語、カタカナばかりになった。『先物』くらいは残っているけど」

 デリバティブといった用語だけでなく、日常会話でアウトソーシングやインバウンド、デフォルトといった言葉を当たり前のように私たちは使う。経済だからいいかと思っているが、「米国の先住民の言葉が絶滅に向かったのは、貨幣から時間の表記、契約まで何もかも英語を強いられたから。中身や衝撃度がわかっていないのにTPP(環太平洋パートナーシップ協定)という言葉だけが独り歩きし、わかった気分になっているうちに、チチンプイプイとだまされる」。日本語が追いやられるだけでなく、人が自分の言葉で考えなくなるという危惧だ。

 でも日本と植民地の先住民とは違うのでは。そう応じるとビナードさんはこう言った。「日本は属国のままで、米国から独立しているとは思えないから」

安倍政権に対する日本人の反応にも属国らしさが表れているという。「安保法制などで国会を軽んじ、内閣で何でも進めようとする安倍さんに国民がさほど抵抗しないのは、みな日本が米国から独立していないと思っているからですよ。安倍さんはチェーン店の店長みたいな人だから言っても仕方ない、言うなら本社、アメリカだと思っているんです。プーチン(露大統領)らが日本の外交にあまり興味がないのも、日本を独立国家だと思ってないからでしょ。いい政治をしてたとは思えないけど、僕が来日した頃は、例えば米通商代表部の代表だったミッキー・カンターとやり合った橋本龍太郎みたいに、独立はあり得ると考えていた人がまだいた。今は皆無じゃないかな」

 日本語延命のもう一つの条件、民族のアイデンティティーもずいぶん衰えたとみている。10年ほど前、ビナードさんはある文字を見て、はっとした。「和のえほん」「和テイスト」。自分が日本に来た1990年代、普段使われる「和」といえば和の精神、調和が先に来たが、いつの間にか「日本」という国そのものを指すことが多くなった。ここは日本なのに、なぜあえて「和」と銘打たねばならないのか。日本人は自分たちの文化を「よそ者の目」で見始めたのでは。そんな仮説を立てると、いろんな事が納得できたという。

 着物ブームは一見、グローバリズムへの反動、伝統の見直しに映るが、あくまでもエキゾチシズム(異国趣味)であり、コスプレに近い感覚。外国人が見て喜ぶ東洋趣味に近い感覚になっている、と。「一方でハロウィーンが定着し、政府は家畜番号みたいなマイナンバーという言葉を喜んで使う。この前、区役所で、ホワッツ・ユア・マイナンバー(あなたの私の番号は何番?)って英語で聞かれて、本当に吐きそうになったよ」

 そして、文部科学省による小学校の英語教育。

「英語を学ぶのはいい。でも僕が見るに、日本語は英語より劣っているという印象を子供たちに無意識に植えつけている気がする。文科省の英語教育は中高を見ればわかる通り悲惨だから、二流の英語人が育っていく。日本語力が弱まり、きちっとした言葉を持たない民があふれる。そんな愚民政策に対する議論がもっとあっていいのに、本当に少ない。このままでは『飛んで火に入る日本語の虫』だよ

 そのジョークは今ひとつだが、要は、自分たちの国を自分たちで好きなようにつくろうという真の意味での独立を日本人は諦めているのではないかということだ。「じゃあ、どうすればいいのか。そう言うと、みな足し算で考えるでしょ。安倍さんじゃないけど、対案を出せと。でも引き算でいい。政治宣伝から普通の広告まで、垂れ流される映像、情報を拒否し、スマホも持たない運動を僕は広げたい」。そして静かに考えようと。     毎日新聞12/1より転載

 ■人物略歴

Arthur Binard

 1967年、米ミシガン州生まれ。詩集「釣り上げては」で中原中也賞、「日本語ぽこりぽこり」で講談社エッセイ賞。近著「知らなかった、ぼくらの戦争」(小学館)が評価され、10月に坪内逍遥大賞奨励賞。

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