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植木等の父と治安維持法


某番組で「植木等」さんを描いた番組が始まりました。ヒット曲「スーダラ節」の「わかっちゃいるけどやめられない」は一世風靡した文句となりました。

「絶薬」を書いている途中として、「わかっちゃいるけどやめられない」を取り上げよう(否定的でなく)と思っていたら、下記記事をみつけ、共感したので転載します

 本日、新ドラマ『植木等とのぼせもん』(NHK)の放送がスタートする。このドラマは、植木の付き人を務めていた小松政夫の自伝的小説『のぼせもんやけん』(竹書房)を原案とした作品で、映画『無責任』シリーズや「スーダラ節」で一世を風靡した時期の植木等とそのまわりの人々の人間模様を描くドラマだ。

 山本耕史が植木等を、浜野謙太が谷啓を演じてクレージー映画のカットを再現したり、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)の再現シーンでは、NMB48の山本彩が園まり、元℃-uteの鈴木愛理が奥村チヨ、中川翔子が伊東ゆかりを演じる歌唱シーンもあり、映画ファン・アイドルファン・昭和歌謡ファンから熱い期待を寄せられているドラマである。ただ、そんな登場人物のなかでも本サイトが最も注目したいのが、伊東四朗演じる植木等の父・植木徹誠である。

徹誠は浄土真宗の僧侶で、被差別部落に対する差別反対や戦争反対を叫び、治安維持法で投獄されるなど波乱万丈な人生を送った人物として知られている。彼は1978年に83歳で亡くなるが、その人生に興味をもつ者は多く、等は1987年に父の人生をまとめた本『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』(朝日新聞出版)を出版している。

 そのなかで等は、若い頃キリスト教の洗礼を受けながら、その後に僧侶となり、しかもその間、社会主義者として労働運動や部落解放運動に取り組んでいった父に対し、彼流の言い方で「支離滅裂」と表しているが、その筆致からは、一貫して弱者に寄り添ったことへの確かな尊敬が読み取れる。

〈おやじはまた、日常生活においてもたぶんに「支離滅裂」だった。人間平等、部落解放、戦争反対を主張して、幾度となく検束され拷問を受けても、おやじは血を流しつつ節を曲げなかった。いつでも、どこでも、おやじは信じるところを叫んだ。その生き方は無垢な求道者そのものである〉 〈しかし人間とか人生とかいうものは、もともと逆説に満ち満ちているものなのだろう。一見、豪放な人間が実は非常に繊細であったり、粗野とみえた人間が心底やさしかったりする例は、身辺、枚挙にいとまがない。  おやじ、徹誠の場合にしても、一見「支離滅裂」な言動に、貧しい、弱い、生身の人間に対する共感、という強靭な一筋の糸が通っていたことを、私は近頃、しみじみ感じているのである〉(『夢を食いつづけた男』より)

植木等の父は「戦争で死ぬな、なるべく相手も殺すな」と語った

 後に得度して徹誠となる植木徹之助は、1895年に三重県で材木商を営む家に生まれる。14歳のときに上京して真珠店の工場で働くようになるが、大正デモクラシーの空気が色濃いその時代、勤めていたその工場の寮で出会ったキリスト教と社会主義思想は彼に大きな影響を与え、労働運動などに参画するようになっていく。

 しかし、関東大震災で仕事を失い、また、その後の貧困で身体を壊した彼は、妻の実家である三重県の西光寺に身を寄せる。この地で部落差別の現実を目の当たりにして怒りを燃やした。またそれと同時に、親鸞の思想に出会い傾倒していく。

 その結果、彼は名古屋の本願寺別院で修行をし、徹誠と名を改めて三重県の朝熊に住み、その地にある三宝寺で住職としての仕事をこなしつつ、激しい部落差別反対闘争に身を寄せていく。

 なぜ、僧侶の徹誠が部落差別反対闘争に参加したのか? それは、いま生きている庶民たちを救済することこそが親鸞の思想だという立場をとっていたからだった。『夢を食いつづけた男』では、徹誠が三宝寺に着いた日、檀家の人たちに向かってこのように語ったと綴られている。

「私は死人の供養に来ましたが、同時に、生きている人びとの良き相談相手になるつもりでもいます。おたがいに友達同士として、苦しいこと、なんでも相談にきて下さい」

 時代はだんだんと戦争に向かっていく。そんななか、召集令状を受けた檀家の人がその旨を伝える挨拶に来ることもしばしばだったというが、そんなとき徹誠は、当時の人が絶対に言ってはいけないこんな言葉をかけていたという。

「戦争というものは集団殺人だ。それに加担させられることになったわけだから、なるべく戦地では弾のこないような所を選ぶように。周りから、あの野郎は卑怯だとかなんだとかいわれたって、絶対、死んじゃ駄目だぞ。必ず生きて帰ってこい。死んじゃっちゃあ、年とったおやじやおふくろはどうなる。それから、なるべく相手も殺すな」(『夢を食いつづけた男』より)

 僧侶としては至極当たり前の言葉なのだが、部落差別に反対したり戦争に反対したりと権力に楯突くことをしていた彼は、ついに治安維持法で逮捕されることになってしまう。

父の逮捕で“キョーサントー”“アカの子”といじめられた植木等は…

徹誠は晩年になるまで、息子である等には逮捕された当時のことを話したがらなかったという。それは、その取り調べがあまりに苛烈で屈辱的なものだったからだ。皮チョッキを着たまま水風呂に沈められたり(皮は水を含むと縮むので胸が締め付けられて最悪の場合失神する)、「柔道の稽古」と称して何人もの警官から気絶するまで投げられ続けるということもあったそうだ。

 こういった人権無視の暴力的な取り調べを受けた徹誠も大変だったが、父が逮捕されてしまった等もまた大変であった。学校が終わったあと、父に代わって自分が檀家をまわったりといったこともあったし、また、父が思想犯であることをあげつらったイジメも受けた。「週刊ポスト」(小学館)2007年3月2日号には、当時受けたイジメについて語る等のこのような発言が掲載されていた。

「鬼ごっこをしていて、僕が鬼になるでしょ。すると“鬼さん、こっちこっち”って呼ぶところを“オイ共産党、共産党”ってみんなが呼ぶわけ。なんか自分のこと呼んでるなってことは分かるんだけど、“キョーサントー”なんて子供だから何のことか分からないでしょ。だから家に帰って“キョーサントーって何のこと?”ってお袋に訊いたのね。そしたら、“お前、どうしてそんなこと知ってるんだい?”って。“鬼ごっこしていて僕が鬼になったら、みんながキョーサントー、キョーサントーって呼ぶんだよ。キョーサントーって何のこと?”ってもう一度訊くと、“お金持ちはお金持ち、貧乏人は貧乏人って世の中は良くない。お金持ちも貧乏人もなく、日本全国みんなが同じくらいの収入で同じくらいの暮らしができるようになった方がいいというのが共産党っていうんだよ”と。  それを聞いた僕は、“それはいいことじゃない”って子供心に思ったわけ。それからは、“キョーサントー”とか“アカの子”とか呼ばれても何とも思わなくなったよ」

父によるアドバイスがなければ「スーダラ節」は生まれなかった

 自らの思想に殉じて生きる父の活動は、植木家にとっては必ずしも良いことばかりもたらしたわけではなかったが、しかし、等はそれでも父に敬意の念を抱いていた。それは、芸能活動をするにあたって芸名を用いずに本名である「植木等」を用いたことにもよくあらわれている。彼は、父が確固たる思想のもとに名付けたその名を誇りに思っていたのだ。

〈三十の峠を超してから生まれた三男、私にはすんなり「等」と名づけた。絶対的平等が人間社会の根本だ、という理想を、いわば宣言したのである。私は、この名前を誇らしいと思っている。本名も芸名も、この名前一本でやっている〉(『夢を食いつづけた男』より)

 徹誠がもつこういった背景がどれほどドラマで描かれるかは未知数だが、ただ、このシーンだけは確実に入ると思われる逸話がある。それは、名曲「スーダラ節」にまつわるもの。もしも徹誠のアドバイスがなかったら、「スーダラ節」はこの世に存在していなかったかもしれないのだ。

 等が「スーダラ節」を歌うことになった際、「飲む、打つ、買う」に耽溺する男の自堕落な生活を明るく歌う歌詞があまりにも不真面目であることから、等は躊躇し、父に相談してみることにした。そこでこんな言葉をかけられ、歌うことを決意したという。「週刊プレイボーイ」(集英社)1990年12月18日のインタビューでこのように語っている。

「あのおやじならなんと言うか、と思って詞を見せたんですよ。「どうだい、おやじ、この歌、やろうかどうか俺は迷っているんだけど」と言ったら、「うーん、これは親鸞の生き様に通じる精神だ。地球上に人類が存在する限り永遠不滅の真理」だって。それで、どこがそうなんだって聞いたら、「わかっちゃいるけどやめられない、っていうのがそうだ」って言う。腹を決めてやってこいって」

 徹誠は「スーダラ節」の歌詞から、人間の欲望も含めた「生きること」の肯定を読みとったのだ。今夜スタートのドラマでも、是非ともこの父について多く描いてもらいたい。      「リテラ9/2日号より転載」

(新田 樹)

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