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みよちゃん ー実存ヒプノ十二

                                       橋 てつと

モモジローと差しで呑んでいるのはクリスマスの夜だ。この日にヤツが来るのは恒例になっている。半世紀前の学生運動時からの付き合いなので迎えるのに構えるところは何もない。

最初だけ発泡酒で後は焼酎の、つまみはムカゴにとギンナンをレンジでチンしたものにストーブおでん。おでんの野菜は自家産野菜を連日継ぎ足している。他の食品は割引ものだけを買い、浮いた差額を幾つもの市民運動団体へカンパに廻している事を知っている彼だ、贅沢は言わない。今年の年間割引差額の合計を訊かれたので、二十万だと答えると、「去年とほぼ同じだな」との話からカンパ先の一つ、〈ペシャワール会〉の話になった。

「ブンタロ、何か書かないのか、中村哲さん追悼とかは」と聞かれて、「書き始めたところだ、これ」と、書きかけの原稿を渡した。

『およそ半年前、本紙コラムでタイトル〈骨噛み〉の冒頭を、川筋の男が泣くのは生涯一度、骨噛みの時だ、と五木寛之〈青春の門〉から引用した。炭鉱産業が栄え始めた明治期に筑豊から遠賀川で運ばれた石炭、それを船に積む沖仲仕達は権蔵(ごんぞう)と呼ばれた。♪ 遠賀川土手行きゃ雁が鳴く ーー 権蔵稼業と呼ばれていても♪ との作業歌は映画〈日本侠客伝・花と龍〉の中で高倉健扮する主人公、玉井金五郎が歌っている。明治終期の若松で暴力支配下にあった沖仲仕達の為に命懸けで子頭連合組合を結成するのが金五郎だが、実話が元で、作者は金五郎の子の火野葦平である。火野は父を、川筋気質の男として描く。曲がった事が嫌いで筋を通す、困った人を放っておけない、義理人情に厚く強者にへつらわない、誠を信条とする、が父の人物像だ。金五郎の孫になるのが中村哲氏で、祖父と瓜二つの顔は川筋気質を引き継いだかのようである』。

 

「これって小説か、ブンタロ」「いや、新聞コラムの方だ」「そうか。原稿三枚だろ、どう続ける気だ」「業績は多くのマスコミが流すだろうから、『一隅を照らす』とした彼の信条と、『アフガンへの自衛隊派遣は危険を増やすのみ』とした国会での陳述を、九条を守れの論で展開する予定」「いいんじゃないか、それで。本業の短編創作の方はどうなんだ」「全然進まんね。パソコンの前でため息毎日よ」「ハナからため息という訳か」「鼻からため息? そんな芸当はできゃしないぜ」「お前、作家にしちゃ語彙(ごい)不足だね、最初からのハナだ。ま、シコシコやるしかないな。催眠(ヒプ)療法(ノ)の方はどうなんだ」「ボチボチだね。小説のネタにも事欠くくらいさね」「新技法を創ったとか言ったろ」「ああ、〈たら・れば〉ヒプノね」「そっちはどうなんだ」「面白いのがボチボチと出て来てる」。

そうかといった切り、モモは興味を示さなかった。元々マルキストの彼は、ヒプノへの関心は強くは無い。

「女はどうなった。三人の女は」。

「三人だと」、〈良く憶えていやがる〉と思いながら問い返す。

「おお。野菜を勝手に送りつけて、お返しならカラダでと脅した酒井和歌子」「連絡なし」。

「二十いくつか離れた教え子の秋吉久美子」「進展なし」。

「結婚は虚像の幸福だとか余計なカント論までヌカしたとかの手フェチの女」「連絡無し」。

「ハハハ。全滅も同然じゃないか。今年も実り無しだな」。

目尻をだらしなく下げて笑うモモが、ヒトの不幸の蜜をたらふく吸ってる熊ン蜂にも見えてくる。独り身のオレを案じて呉れている風なのだが、愉快気な顔を見せつけられるうちに癪に障り、反撃する事とした。

「実は今、女と暮らしている」「何だと、嘘だろ」

「ほんとだ。佐多の別宅に居る」

カウンター一発で形勢は逆転し、すっかり笑顔の消えたモモを前にゆっくりとコップ酒を一口飲んで語る。

「女が来たのは半月前さ。宮崎県は北部の町からだった。ヒプノ依頼じゃなく技法を学ばせてくれと言った。オレもそろそろ直伝の弟子を育てようと思う気があったし、女がタイプだったから引き受ける気になったのよ。遠方だし、住み込みのつもりで女も心を決めて来た」「お前が古老になったとは言え、男と一緒に暮らす覚悟とは随分性根の座った女だな、どんな女だ」「強くはないさ、泣きながら身の上を話したからな」「そうか。どんなタイプだ、好みとは。尤も美女恐怖症とか名乗ってるお前のストライクゾーンなんて、あって無きが如しだからな。女優で言えば誰だ」「大きな目と表情で語るところが、浅丘るり子あたりか」「やすらぎ、のばぁさんか」「もっと若い」「夕陽の丘じゃないだろ」「中間だな、寅さんの頃」「いいんじゃないか。それでもお前には勿体ないくらいだな。実物を見てないから何とも言えんが」。

 

鹿児島湾が時化で波を立てていた日。大きなカバンを車のトランクから出して、女は言った「ヒプノの技法を学びたいのです。何日かかろうとかまいません。教えて貰えませんか」。

「簡単という訳にはいきませんよ。HPでご覧になったと思いますが、三十時間ほど必要です。心理学講座十時間、輪廻転生論十時間とで理論学習が二十時間、実技におよそ十時間です。その間に他のゲストさんの依頼も入るでしょうからひと月ほどはかかると思って下さい。勿論他のゲストさんへの施術を見ても貰います。ひと月ですよ。できますかね」

「お願いします」、即座に戻ってきた歯切れのいい返事に、心は舞い上がりながら表情は冷静を繕って続けた。

「ひと月の宿泊なら単純計算で費用三十万となる訳ですが、家事手伝いなどをバイトと換算して割り引いて、十万でいかがですか」と商売顔で告げている。男性なら三十時間の三十万とHPにはあげていた。他では一週間の二十万で技能習得をさせているところもあるとは知っていた。ひと月としたのは丁寧に教えたいもあった、が、女がタイプだったからに他ならない。ひと月も一緒に暮らせば相性もわかるだろう。半世紀前の流行り言葉で言うなら同棲、もっと昔なら足入れ婚、今で言うならお試し婚か、これで体の相性まで解るなら〈鴨葱〉じゃないか、と既に心中では舌なめずりを始めていた。

初日の夜。酒を飲みながら、彼女を名前から、みよちゃんと呼ぶ事にした。〈ちゃん〉呼びは心理的垣根を取っ払う思惑である。垣根で言うなら、ハウス内のゲストルームに内鍵はどこもつけて無い。女性一人での来客にせよ、内鍵の用心をするようではヒプノ依頼者として信頼(ラポール)感ができていないとの考えからだが、鍵無しの理由は問われた時にだけ答えている。

その夜、HPを改編した。自分のネットでは圏外の為、彼女の回線を借りた。改編したのはヒーリングハウスの予約について。今後ひと月をサービス期間として三割引きとし、一週間前としていた予約を三日前で可とした。施術ゲストを増やして、彼女にヒプノ見学を多くさせてやろうと思ったからだ。

翌日。午前の二時間を学習時間とする。五年前に始めたHPは毎日更新していて、〈てつとの部屋〉には千六百を超す内容をアップしている。心理学関係が凡そ六百、政治社会記事の転載が同じほど、残りがコラムなどの雑記である。彼女には日に二十項の心理学用語や理論を読んで貰い、質問に答えると言うやり方を学習法とした。

午後から本土最南端の佐多岬へのドライブに誘った。身上話を昨夜途中で止(と)めたのは対面で聞くには重い内容に思え、時を変えて車中での対話とした方が話しやすいだろうとの計算だった。

結婚二年で夫と別れ、再婚せずに一人娘を育てて来た。仕事は保育士をしている。娘も短大で保育士の資格を取って卒業後の就職も内定していた。帰省した娘と正月を一緒に過ごし、帰る娘に近くの金融機関の通帳と印を渡してお金をやったのは成人式用の晴れ着代を援助の為で、現金にしなかったのは、指定した支店の男性行員が自分のお気に入りだったから。明朗で誠実そうな人柄に、娘と縁が出来ればと淡い期待を勝手に思い浮かべていた。通帳は後日でいいからとして、娘はそのまま自宅へ戻ったはずだった。が、到着予定の時間を過ぎても電話が来ない。待った電話は一時間後、救急病院からで、娘の交通事故と重体を告げるものだった。

「死に目にも会えなかったんです」「余計な事さえ頼まなければ」と語り終える頃には、横目にも、薄いハンカチがぐっしょりと濡れているのが見てとれた。四年前の出来事なのに先日の事のように思い出されると語ったが、そこまで口に出していない願いは、ひしひしと伝わって来た。(あの時、用を頼んでいなかったら)を知りたいとの願い。

だが、もしも。依頼をしなかったらの〈たら・れば〉ヒプノをやって、娘が事故に遭っていない多次元(パラレル)世界(ワールド)が現れた場合、彼女の責めは計り知れないものに成らないだろうか。

急いではなるまい。もっと彼女には時間が必要と思った。他の被験者の(たら・れば)ヒプノをみて貰う必要があるとも。

 

数日後。ヒプノ依頼に来たのは、隣県熊本からで五十過ぎの男性。依頼項目は二件だった。一つが過去生、もう一つが(たら・れば)ヒプノで、どちらも女性に関してのもの。二回の離婚歴があり、三人目の妻と暮らしてほぼ十年になる。が、最近になり別の女性と関係が出来てしまった。妻と離別して女との結婚を考えている、が、この出会いは何なのか、そして一緒になったらどうなるかを知りたいというものだった。

初日の夜。みよちゃんも交えて、食事時に酒を飲みながら語る。アシスタントとして彼女は紹介した。

(四人の女性ですか、多くと出会うのはアナタが女好きだからですよ。羨ましいですね)、なんて茶化すような事はしない。酒が入っても、だ。セラピストとしての矜持(きょうじ)が失われかねないし、まして隣にはみよちゃんもいる。

「明日の午前はヒプノの説明をさせていただき、午後から施術としましょう。一つが女運を知る過去生ヒプノで、もう一つが(たら・れば)、と二段回で考えたのです。ですが、貴方には若干の勘違いがあります。(たら・れば)ヒプノとは、過去の選択をもし変更していたらどうなったかをやるものなのです。ですが、貴方のご依頼は今からの選択を問うものだからです。ですから、〈たら・れば〉でなく、実存ヒプノの課題と、未来への投企という連続性でやれるのではと考えました。明日は連続でやってみましょうか」と。

 

「現生に最も関係深い過去生です。どこですか、何をしていますか」

「じょろやたい」「え、じょろや。ゆっくりでいいですからね、思い出すのは」

そう言うと、被験者の男性をそのままに室外に出て、側に付き添っていた彼女を外へと招きだした。

「過去は遊郭(ゆうかく)の女性みたいなんだ。九州の。続きを聞く?」

「遊郭、って?」「今のソープランド。行った事は無いのでよくは知らないが、男性が性的に遊ぶ場所。何を話すか解らない。無理して聞く事はない」と、行った事は無いに力を込めて語ったが、聞くと返事した彼女と部屋に戻る。彼女の反応が楽しみになっている。

「場所と時代が解りますか」「宮崎の近くです。時代は新しい世になったところです」「新しい世?」「将軍様に代わって天子様の世です」「明治ですかね。名前と歳が解る?」「名は彦一、歳は十八」「彦一?       

男ですか」「うんにゃ。女子(おなご)じゃ」「解りました。お願いがあるんですが」「何?」「お女郎さんの言葉で無く、女言葉でも無く、男言葉で喋って貰えませんかね」「良かど」。

ホッとした。過去生が異性の場合は異性語で話してくるのが通常なので不慣れではないのだが、みよちゃんという第三の観察者がいる事でなぜか対話にも調子が狂い、いかつい男性が女性語で話すのに噴き出しそうになってきていた。それを抑えて続ける。

「なぜ彦一とか男みたいな名前なの」「肥後の出じゃからよ、肥後で一番の意味」「そこは熊本?」「違(チゴ)、宮崎じゃ」「出稼ぎですか」「出稼ぎ? 違ど。身売りで連れてられたとよ」「そうか、長いの?」「まだ半年じゃ」「何人くらいいるの、そこ」「女子(おなご)ん衆なら、八か九人」「仕事はどう?」

性的仕事を聞くのに躊躇(ためら)いは有ったが、聞くと答えたみよちゃんに聞かせたい気が生まれている。

「どうチ聞かれても、な。楽しか訳がなかろ。マンマが食える分だけましじゃち、思うちょる」「いつまでいるの」「年季明け、借金が終わるまでよ」「そうなんだ、何年ほど?」「あと八年くらいじゃ、ち」「そうか。心掛けとかある?」「心掛けち、何な?」「心で決めた決まりみたい、なもの」「病にならない。男に気をやらない、かな」「ん? 気をやらない?」「惚れさせても惚れない、つう事」「そう。そこを出ようとは思わないの?」「出る? できない。逃げても捕まるだけよ。前借金がカタだし返せないとクニでも困る」「そうか。話を変えますね。西郷さんって知ってる」「エラか陸軍大将さぁじゃろ。あ、辞めて鹿児島に戻ってきやったとか」「知ってるんだ。あった事は無い?」「鹿児島のエラか人がこげなトコに来やる訳がナかが。キャク下じゃし」。〈客下? 格下の店と言ってるのか〉と得心し、続ける。

「西郷さんが戦争でここらを通ったって話はない」「うんにゃ、聞かんど。徳川は征伐したろ、何のイクサじゃ」

「そうですか。ではその生を終えてあなたは中間生にいます。人生を大まかに振り返って教えて下さい」「苦労の一生でした。年季が倍に伸びて、クニに戻ったのは三十の前でした。それから家の手伝いで結婚はせぬまま、数えの五十で他界しました」「年季が伸びたのはどうして」「政治の所為(せい)です。あの後、明治十年に西郷さんが戦争をしやりました。人望のあった西郷さんでしたからいい世に替えてくれるだろうと期待したのです。ですが西郷さんが残したのは使い物にならなくなったお金でした。戦後に、西郷さんのお金を政府がただの紙切れにしたのです、西郷人気を落す為だったかは解りません。次に政府は西南戦争で作った借金返済をする為に緊縮財政を採りました。私の借金は減るどころか馴染ん様(さァ)達から戴くお金も減る一方でどうしようもなく、年季が二十年超えたのはその為です」

「そうですか。他には何か」

「政治の事をもう少し語りますね。現生で〈森・加計問題〉とか話題になりましたね」「ええ。よくご存知で。総理が友達の為に国有地を不法に安くで払い下げを画策した疑獄だと私は思ってます。自殺者も出た」「ですね。実は、私の過去生でも同じような事件があったのです。ご存じですか。北海道官有物払い下げ事件」「どんなのだったっけ?」「鹿児島の方には聞きづらい話かもしれませんが」「かまいませんよ」「薩摩藩出身で北海道開拓長官の黒田清隆が同郷の政商五代友厚に地位を利用して官有物の不当な廉売(れんばい)をしようとした事件です」「結論はどうなったっけ」「あれ、セラピストさんは元高校社会科教師じゃありませんでした?」「ええ。でしたが退職後の日も経ちましたんで。忘れもしますよ」「ですか。ではお話しましょう。事件を新聞が厳しく追及したのです。黒田の政的の大熊重信との利権争いを、新聞は熊対蛸の勝負と連日の如く書き、囃し立てました。熊は黒田、蛸は黒田のあだ名です。で、黒田は失脚となり、計画は破綻です。新聞の追及が黒歴史を裁いたと言っても過言ではない」「そうでしたか」「もう一つ有ります。権力が腐敗するのは監視する機能が無いからだ、国民の声を聞くべしとの声が世間に輩出した」「自由民権運動だな」「そう。それを利用したのが伊藤博文です。国会を開設するとの公約をすると、欽定憲法を作り、ちゃっかりと初代総理の椅子に座っちゃいました」「長州はずるい、と」「そこまでの決めつけは致しませんけどね。とにかく、国民代表としての国会が行政チェックを果たさなければ権力は腐敗する。それが百四十年前の教訓です。マスコミと国会は怠惰であるべからず、と」

「なるほどね。で、貴方の人生ですが」「はい」「振り返っていかが」。

「政治に翻弄(ほんろう)された人生でした。勿論、政治とは政(まつりごと)の方で、性(セックス)の方ではありません」「はい」。又しても噴き出しそうになったのだが、みよちゃんはニコリともせず話を聞いている。どこまで理解しているか判らないのだが。   

「西郷札にせよ松方デフレ政策にせよ、私どもは貧しくなっていく一方で、どうしようもありませんでした」「そうですね。女性に参政権などの権利が認められたのは新憲法からですものね」「はい。女性は政治の犠牲者でしかなかったのが戦前でした」「成程。で、話を戻させて貰いますよ。現生の自分へのメッセージを貰えますか」「解りました。愛です」「愛する事が貴方の現生での課題だと」「そうです。過去生の自分が学ばなかったものと考えます」「もっと愛せよ、ですね」「ええ。ですが。愛はラブです、性(セックス)ではありません」「では、愛せよ、を課題として担った将来の自分を見てみましょうか、今からが実存ヒプノとなります。いいですね」「待って下さい」「何でしょう」「計画では連続してやると言う事でしたが」「そうです、課題を担った場合とそうでなかった場合の近未来です」「明日にしていただけませんでしょうか」 。

明日という希望は、現生の本人の意思からで無く、中間生のものである。理由を聞かず承諾した。中間生とは魂の存在であり、永遠に転生していく自我そのものである。この正体というものについては過去の作品で何回も明かしてきた。簡単に言うと、〈神に繋がる自我〉だ、と、ここでは説明しておく。故に「明日が希望」は、理由を聞かずとも受け入れたのである。

翌日。実存ヒプノの希望は三年後だった。課題〈愛せよ〉を引き受けた場合と、そうでなかった場合を施術する。

「課題を引き受けた場合です。何をしています」

「コーヒーを飲んでいるよ」「誰かと一緒ですか」「誰もいない、一人だ」「誰も?」「そう。四人目の女と暮らしていたのよ。離婚の成立を待たずにな。だが、三月も経たずして金と一緒に女にトンずらされちまった。で、家事が面倒でよ、紙皿に紙コップの使い捨て生活なんだがコーヒーが不味くて仕方ないと来てる。大体、コーヒーというものはだな」

「解りました。では引き受けなかった場合です。何しています」

「サンルームにいる」「自宅ですか」「そう」「四人目の人とは結婚しなかったの?」「したんだ。でもひと月で逃げられた」「ひと月で?」「そう。で、家に戻ったのよ。前の嫁と元のサヤに収まりたいんだが、どうやったら嫁に許して貰えるかを考えている最中さ」「考えつきましたか」「まだだ。それにしてもコーヒーがうまい」「コーヒーですか」「そう。俺にはささやかながら小さな決まり(ルーティン)があるんだ。朝一には必ず少量のミルクを入れる。二杯目からはブラックだ。休日には十杯近く飲むが、天気や気分によって色々変えるのが好みなんだな。キリマン、ブルマン、ジニスにハックルベリなど、な。それに、最近嫁が体にいいからと仕込んで来たのが加わったのさ。菊芋コーヒーというヤツだ。今、飲んでいるのがそれだ」「という事は嫁さんが淹(い)れてくれた?」「おうさ」「美味いですか」「決まってるだろ」

覚醒後である。男に告げる。

「どちらも、四人目の女性と一度は一緒になってましたけれどね、運命として決まっている訳じゃないのです。どうするかは貴方の選択です。自由な選択が未来を創る、実存ヒプノの眼目はそこにあります。終わります」。

 

「ヒプノではああ出た訳だが、女房と畳は新しい方がいい、というからなぁ」との、酒飲んでからの男の言葉に返す「糟糠(そうこう)の妻という言葉もありますからね」。意見を挟まない、がセラピストとしての自分のスタンスなのだが、つい口にしてしまった。

ところが。洗面所で一緒になった時、男は声を潜めて言ってきたのだ「先生はあのアシスタント女性とは出来てるんでしょう?」「できてるとは?」「合体ですよ。同じ屋根の下で暮らしてんだから、当然といえば当然でしょうがね」「いや、まだだ」。

〈まだ〉という不用意な語は酒が言わせている。耳元で男は続けた「催眠使えばできるんでしょ、〈好き好き〉催眠とか、〈タイムストップ〉とか」。

男は詳しかった、ユーチューブとかで見た事があったのだろう。

〈好き好き〉催眠とは瞬時にして被験者に自分を好きになるよう暗示するやつで、〈タイムストップ〉催眠は被験者の時間を停止させて思い通りのオモチャにするヤツ。覚醒後に催眠中の出来ごとの記憶を消失させるのも可能という技法で、当然だが俗称である。

「やれませんよ。映像みたいに相手を思いのままにする事が実際にやれるとしたら、今頃はヒプノ大流行ですよ。ヤラセです」「出来っこないと」「ええ。間違った期待など持たない方がいい」「解りました。何でもできると思ってたヒプノですが、完全な魔法じゃない、って理解でいいですかね」。

 

続いても男性からの依頼だった。六十を過ぎたばかりというのに髪はすっかり白髪で、七十過ぎと言われても信じられる風采だった。子どもはおらず、六十で定年退職してからの妻との二人の生活を楽しみにしていたという。

「ご存じですか先生、TVの〈人生の楽園〉という番組を」との男の問いに、知らないと答える。知ってはいたが見たくない番組だった。退職後に第二の人生とやらを夫婦が仲睦まじく起業して経営するというもの。自分も退職後は二人で民宿でもやるかと計画していたのに、妻は五年前に他界してしまい、夢は儚く頓挫しているのだ。そんな番組など見たい筈もない。

男は続けた「私も妻も料理好きでしてね、退職後には一緒に何をやろうかと語るのが楽しみだったんですよ。それが」。

退職に合わせるかのように妻は病魔に襲われ、突然死したという。「それから今まで、夢も希望もない日々でした。早く妻の迎えが来ないかと。自殺も考えましたよ。でも転生論では自死を諫(いさ)めている。私はどうすればいいんだ、毎朝目覚める度に今日も生きろと言うのかと、悔やむ日々なのです、二年もの間です」。

「解りました。それで? 御依頼は?」

「三つあります。なぜこういう人生になったのか知りたい。二つ目は、〈たら・れば〉催眠で妻が死んでなかったらの世界、つまり妻と老後を共に生きている人生を見せて貰いたい。三つめは來生でも妻と結ばれる縁なのか、それを知りたい」

「ふむ。ご依頼の要件は解りました。が、三つとも容易ではありません。理由を説明しましょう。何となれば、ヒプノで体験できるのは自分に関する世界だけなのです。〈たら・れば〉も過去の自分の体験の変容世界を見られるのであって、第三者の絡む事柄となると難しいのです」。

男に落胆の色が浮かんだのを見ながら続けた。

「難しいご依頼だ、と、他の施術師(セラピスト)ならきっと言うでしょう。だが、ヒプノ歴四十年、国内トップクラスを自称し、かつ本邦初の〈たら・れば〉ヒプノを開発した私としては、無下にご依頼を断れる立場にはない。やってご覧にいれましょう。ご期待して貰って結構です」

と言いながら、みよちゃんに安堵の色が浮かぶのを目の端にしっかりとらえている。

 

「妻が先に逝く事は二人で決めていた事なんだぞ」。

中間生にいる人物として男が語り続ける「なぜ、今の時期だったかは自分で考えるのだ」。

「貴方が残った事、今の時期だったという事のどちらにも意味がある、という訳ですね」「そう」「解りました。それが現生で必然だったとしても、妻が生存している別の多次元世界を見たいとの強い希望も有るのですが、見せて貰えますかね」「いいだろう」

「では、三年先の未来です。元気な奥様が傍(そば)にいますよ。何をしています」「喧嘩している」と中間生から現生に移った男が語った。

「喧嘩ですか。何で? 訳を聞かせて貰えますか」「そばですよ」「そばとは?」「蕎麦屋をやっているんですよ。小さな店ですがね」「それで?」「ここまで来るには二人で色々研究を積み重ねてきたんですよ。で、最後は二八蕎麦で行くと決め、おかげで毎日限定四十食は完売しているのですがね」「二八とは」「小麦粉とそば粉の割合です。見た目、のど越し、味から二八に決めたのです。自信をもってこれで提供していたんです。ところが評判聞いて来られたお客さんの中に、十割(とわり)蕎麦はないのかと注文される方が時たまいて。それで家内が十割も作ろうかと言い出すものだから。冗談じゃない、十割り用の汁まで別に作れるかと言い合いになったところです」「そうですか。羨ましい。一日中顔を突き合わせてケンカまでできるなんて、独り者からすれば羨望の極みですよ。でも、気をつけた方がいい」「何を」「蕎麦食う客はいても、犬すら食わないと言うのが夫婦喧嘩と言いますからね」

男にもみよちゃんにも笑顔は浮かばず、展開を変える事とする。

「では、今生でなく來生を見るとしましょう。現生での奥様と一緒の未来です。浮かんできましたよ、見えますね」「おお、見える」「二人一緒ですか」「そうだよ」「何をしています」「そばの収穫さ」「ほぉ、二人おそばでソバの収穫とは」。男は笑わず、みよちゃんも笑わない。

「どこですか」「蕎麦畑に決まってるだろ」「日本ですかね、いつ頃ですか」「日本じゃない。時は二千と百二十五年とでた」「百年後じゃないですか。外国人なの? もっと詳しく教えて貰えますか」「生まれは二人とも日本。だが十年前に日本を離れて今はタスマニアだ」「タスマニアってどこ? アフリカだっけ」「それはタンザニア。タスマニアは元オーストラリア。今はオセアニア国だ」

日本を離れたのは仕事が無くなったからで、AIが普及した事による、と男は語った。子供がいなかったので、外国脱出を考え、最初ニュージーランドに移住した。酪農をやってのんびり暮らしたいと思っていたが、酪農も殆どが電子機器とロボットによる管理作業で、飼育の楽しみを見つけられずにいたところに、隣国の元オーストラリアと合併してしまった。それを機にタスマニアに移り住んだのが三年前で、元アポリジニーが暮らしていた地域に移り住んだ。途端、それまで諦めていた子供が生まれ、キャッシーと名付けた女のコは三歳になる。自給自足に近い生計で、ここに移り住んでくる住民はみな同じような生活スタイルだ、助け合いを基調とする共同(コミュ)生活(ーン)に近いという。

「日本の新蕎麦は早くて六月でしょ。こちらは三月に食べられるんです。ま、気候が反対と言えばそれまでですかね。私が打った蕎麦は評判がいいんですよ。それより今は、丼の器を焼けないかと。いい土を見つけたので作陶の楽しみが見つけたところなんです」

延々と話が続きそうになったところで覚醒して貰った。

感想はと問うと、「いいヒプノでした。満足です。ですが」「何?」

「蕎麦も悪くなかった。でも、妻が今、そばにいてくれた方がどんなに嬉しかったことか」。

笑顔での言葉だったので施術者としては納得の終了となった。

終りに男に告げた「夫婦の死別は必ずやってくるのです。先に逝くか残されるか。二人でこの世に転生してこられる時に貴方が残る方を選んだという事なのです、奥様に悲しみを味わわせないという男気だったのでしょうね。選んだ以上、その責は果たさねばならない。嘆く以上に今から果たすべき使命がある筈です。貴方はそれを捜して努めるべきだと考えますが」。

男は黙って頷き、帰って行った。                          

五十前の女性だった。二十年近い昔に三歳の息子を死なせたと言う。若かった父親が些細な出来事で息子に腹を立てて外に追い出し、雨の中、氾濫していた側溝に落ちて溺死で発見されたと語った。自分が外出さえしていなかったら、息子の死は防げたのではという自責感に今も付き纏われたままだ、という。希望は〈外出してなかったら〉の〈たら・れば〉ヒプノである。

「もしも、息子の生きている世界が見えたら、どんなに嬉しいか」と語った女性に告げた

「でも逆に、今生での罪責感が大きなものになるとは考えられませんか」。

答えない女に続けた「ご依頼ですからやりますが。こんな言葉を聞かれた事は無いでしょうか。『愛する者を失った人にとって死の原因追及はなんの慰めにもならない』、というものです」。

答えずに首を振った女に続けた「麻暮某という探偵の言葉なんですがね。ま、有名じゃないからご存じなくとも不思議じゃない。尤も探偵と異なって当方はセラピストだから、貴方が納得いく答えを探す手伝いに力を惜しむ気は毛頭ありませんが」と言いながら、横目でみよちゃんを観察していた。さりげなく横目で観察、それが特技になってきている。

「その日です。貴方は家にいます。何をしています。教えて下さい」「すこし頭が痛むので休んでいます」「息子さんは何をしています」「先程までぐずついていたのですが、夫が遊んでくれたので機嫌をなおしています」「良かったですね。時間を進めます。夜です。何をしています」「夫が作ってくれたカレー、それを三人で食べています。レトルトなのですが息子はカレー好きなので喜んでいます」

「そうですか、時が進みます。何をしていますか」「女の子が生まれたところです」「ほお。それはおめでとうございます。妹ができて息子さんは喜んだでしょう」「息子はーーいません」

「え、どうしてでしょう。時が進みます、何をしています」

「海の見える公園にいます。水平線が遠くに丸く見えます。気持ちがいいです」「ご家族は?」「娘と二人です。娘は下の駐車場に降りていきました」「二人ですか。娘さんは幾つ」「十九です。今、下の方から私を呼びました。大きな仕草でソフトクリームを食べないかと聞いています」「息子さんは?」「いません」「探してみて下さい」「ええ。でも見当たりません」「おかしいな、よびかけてみて、懸命に」。

突然、一筋の涙が彼女の眼から零れ落ちた。

落ち着かせねばならない。私はゆっくりそして丁寧に告げる。

「大丈夫です。悲しくはありませんよ」。

彼女は手の甲で涙を拭うとゆっくりと答えた「悲しいのではありません。嬉しいのです」「どうしました。息子さんは?」「いませんでした。でも、息子の声が聞こえたのです、『ママ』って」。

「どういう事ですか」「『僕が美保リンに生まれ変わったのを気づいてなかったんだね』と息子が言いました。『僕の分まで美保リンを愛してくれてありがとう。親孝行も二人分でするからね』って。美保リンと言うのは娘です、夫が呼ぶときの娘の名です」。

覚醒した女性に言った「息子さんがいなくなった別の世界だったのですね」。

頷いた彼女に諭(さと)すように続ける「他次元世界は一つと限りません。幾つもあり、その中の一つに貴方は行かれたに過ぎません。勿論、息子さんが成人に成長された世界もあるでしょう。他の機会にその世界を味わう事も可能です」「有難うございます。今日のヒプノは納得いくものでした。別の世界はまたの楽しみにするとします」。

 

 みよちゃんに〈たら・れば〉催眠(ヒプノ)を実施する時がきた。

「今まででおわかりになったと思いますが、〈たら・れば〉で出てくるのは一つではない。貴方が自分の所為(せい)で、娘さんを失ったと罪を背負っている以上に厳しい別世界が現れるかも知れない。それでもかまわないのですね」。

唇を堅く結んで頷いた彼女を退行催眠に導いていく。

「貴方は娘さんを送り出したところです。用事は頼みませんでした。今二時です。確認できますね」

頷く彼女に続けていく。

「時が進みました。四時です。電話が来ましたね」

「はい。娘です。無事に帰り着いたとの電話です。安心しました」

「そうですか。では時をもっと進めます。二年後です。何をしていますか」「家にいます」「お一人?」「孫と一緒です」「孫?」「結婚した娘が女の子を産みました。今、夫婦で買い物に出かけたので、私が子守をしているのです」「それは楽しみでしょう」「ええ。孫も懐いてくれて嬉しいのですが、娘の注文が多くて」「どういう事ですか」「必要以上に甘やかすな、と。娘は躾に厳しいのです」。

「そうですか。時を進めますね。その世界での現在です」「何をしています」「孫と一緒です」「おや、また子守り、失礼、孫守りですか」「じゃないの」「どういう事ですか」「孫育てなの」「え?」

「娘夫婦は交通事故で他界しましたの。一年前です」「え?」

「それで私が孫を引き取って一緒に暮らすようになったんですの」

「そうだったんですか」「勤めながらの孫育てだから、大変なのよ」「解ります」「解らないわよ。簡単じゃないのよ。子育ては娘で二十年前に経験済みなんだけど、時代は変わったわ」「そうですか」「娘の育児の時は、女の子らしく、を柱に置いたつもりだったけど、今は良妻賢母なんて言葉は聞かないでしょ」「そうですね」「どう育てればいいのか。相談できるママ友なんていないし、不安でいっぱいなの」「不安、ですか」「ええ、孫の一つ一つの仕草にどうしたらいいか、たじろぐ事ばかり。保育園勤務の経験ありと言っても、孫と他人様の子供じゃ同じとはいかないものね」「女の子というより人間として育てればいいんじゃないですか」「簡単にいうわね、他人事と思って」「そんなつもりじゃないんですが。戦いの意思があるから戦(おのの)く事もある。戦いの字はおののくとも読むんです。たじろぐ、ひるむは貴方に前向きの姿勢があるからじゃないですか。貴方が投げ出していない証拠ですよ」「そうなんでしょうか」「ええ。そう考えます。思うようにいかないのが人生なんです。思うようにいかないところに学びがある。だからこその〈障壁〉を自ら仕組んだのです、この世に転生してくる前の中間生でね。何の為にかというと、成長の為です。神は乗り越えられない試練は与えないと聞くでしょ。神というのは大我、つまり永遠に転生していく自分なのです。貴方は試練の中で今勉強中なのですよ。子育てを通して、愛する事をね。聞いてみますか、自分の使命は何かと」。

「結構です、それは今の現実世界と異なるこの他次元世界の使命でしょうから」。

 

その夜。微かな香水の香りとともにベッドに忍び込んできたみよちゃんだ。妻と死別後、五年ぶりの女体だった。刺激的な香りと柔らかな肌は時を忘れさすほどの甘美な陶酔へと誘(いざな)ってくれた。

翌朝。食卓の上に書置きを見る。

「お世話になりました。直接のお礼も言わずに失礼します。昨夜の事は忘れて下さい。みよこ」

彼女の所持品は勿論、車も消えていた。茫然自失となった後、浮かんだのはモモジローだった。ヤツが訊いてくるのは間違いない。

「女はどうなった、モモ。発展があったかね」

「おう、ついに合体したぜ」「何、合体だと。とうとう仕掛けたのか?」

「いや、みよちゃんがベッドにやって来た」「嘘だろ」「俺とお前の間に嘘があったか」「信じられん、どうして」「好き好き催眠をやったのさ」「なんだ? それ」「気づかぬうちに施術者のオレ様を好きにさせる催眠」「そんなのができるのか」「合体の事実が論より証拠。なにしろ日本一の催眠術者(ヒプノシスト)様だからな。俺様の手にかかっちゃ赤子の手を捻るも同然、イチコロよ」

顔一面に自慢の文字を貼りつけて語った。伏せた言葉がある。

〈信頼(ラポール)が彼女に生まれていたからこそ、好き好き催眠はやれたのさ〉というもの。

一瞬、目を泳がせたヤツだったが、聞いてきた「良かったじゃないか。となると、いよいよゴールインか」

「ところが。翌日には彼女は消えていた」「どういう事だ」

「簡単にいうと逃げられたという訳」「何だ、それは」

「好き好き催眠は一時的なもので、永続性が無いっていう実証」。

笑いを爆発させてモモが語る。

「小手先じゃ、もとい、口先じゃ女はモノにできないという事だな、人間性だぜ。男女の結びつきとはそれに尽きる。そんな調子じゃブン、お前の再婚なんてずっと先だな」

唾を飛ばしながら笑い続けるヤツに言ってやった

「笑うんならマスクして笑え、モモ。コロナウイルスを撒き散らかすんじゃねえよ」。

それでも笑いを止めないヤツだ。 終り。

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