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頑是ない約束 2

 先生、いえ今は私の主人と呼びましょう、彼が元気を取り戻したのです。
 夏の入道雲を見ることはないだろうと診られていた人が、医者も驚く回復を見せたのでした。きっかけはケイタイを彼の耳元に近づけたことでした。途端、口元がニヤリと笑みを湛(たた)えたのです。そして間もなくして起きあがった彼が私に洩らした言葉はこうでした
「お爺さんに言われたよ、かよ子のテイシュになってくれるそうで有難う様。テイシュじゃないだろうね。ならば、早よ元気になってかよ子にテイシュらしい事をしてくれんバいかんド、と」
「お爺さんは島唄も歌ってくれたような気がする。奄美に来い、釣りに行こうとか他にも何か言われたのだが何度もテイシュと言われたのには笑ってしまった」と。
 痩(や)せこけた顔に笑みを作って彼が言う事に、私もすぐに思い当たりました。
高三の年、家に先生が初めて遊びにきた時の事です。機嫌良く酔った祖父は先生に、私を嫁さんにしないかと言い出す始末でした。ミサちゃんは高校生ですし、と先生が断ってその話は一度きりだったのですが、祖父は何度も「テイシュ」という言葉を繰り返したのです。「テイシュをくれ、ミサ」とか「先生、テイシュ」と。そう、ティッシュの事をテイシュと呼ぶ癖が祖父にはあったのです。
「お爺さんからテイシュという言葉が出るたびにボクはドキリとしたものさ」
 私だってそうだったもの、と、その時の事を思い出して彼と笑いあったのでした。
「でもネ、ミサちゃん。お嫁さんの話は一度きりじゃなかったんだ。お爺さんに追い込み漁に誘われた事があったのさ、偶然だけどネ。散歩に出た海で追い込みをやってる人達が居て見ていたら、中にお爺さんがいて誘ってくれたんだ。その時はリーフでやったんだが大漁だった。黒く平べったい魚で頭に角のある四十糎(センチ)ほどのヤツ、それが五十匹ほども捕れたんだよ。浜に上がってその場で酒盛りになった、刺身と鍋で宴会さ。その時にもお爺さんは言ったんだよ、ミサを嫁にしないかって。辺りを憚る事なく言うものだからみんなが驚いてネ」
 漁師達が驚いていたと楽しげに語る先生に私は肯いていました。そうです、薩摩藩の時代に過酷な黒糖収奪にあった島の人達にとって鹿児島の人々は永く怨嗟(えんさ)の対象であった訳ですから、婚姻話を島人から持ち出すなど考えられないのでした。
「よっぽど気に行ったのじゃなあ、と驚く仲間にお爺さんは『こん人は鹿児島じゃネエ』と断言したんだよ、『言葉使いで解るから』ってネ。驚ろかされたのは今度は僕さ、身上を明かしたよ。鹿児島弁に似てるけど宮崎県都城出身だってネ。お爺さんは得意満面になったし皆も納得の顔をしていたんだが、僕は居心地が悪かった。 
 だって都城は江戸期には薩摩藩領地だったし、島津発祥の地とも言われていた所なんだからネ。さすがにそれは言い出せなかった」
 その時の様子を想像すると私までおかしくなるのでした、そんな私に彼は付け加えたのです
「あの時は嬉しかったよ。教師達の間ではミサちゃん、ハネッカエリと言われてたでしょ、でもその場では皆がイイ娘だって褒めていたもの」
 ミサというのは私の童名です。あの頃、一度だって私を褒めてくれた事のなかった先生が今頃になってこんな事を言うのでしたが、それは私の胸に素直に入ってきたのでした。

 結婚式も披露宴もあげませんでした、そういう事を望まない人でしたから。それでも私は満足して出せないと自分では覚悟していた婚姻届を出したのでした。
 退院したいという彼の気持ちを受け入れ、私は二人の新居を探しました。南アルプスの山々と太平洋の海とが両方見える高原の家に移り住んだのは初夏の頃。近くに通院できる病院も見つける事が出来、空に浮かぶ大好きな入道雲を見上げては先生、いえ主人は満足げな顔をみせるのでした。タカタローというのは島の方言です。
 でも癌という病気を深く自覚していた彼でした、癌には寛解という語はあっても治癒は無いとも言っていましたから。それで退院の際、二つの同意書に私の署名をさせていたのです。一つは延命治療をしないというもの、もう一つは臓器提供の同意でした。使える所はないかも知れないがネとウインクして見せた笑顔の奥に彼の固い決意を知らされる私だったのです。弱音を見せる人ではありませんでした。体力をつけて貰おうと私が調理に精出す傍(かたわ)らで風景に見惚(みと)れていたり読書をしたり、時には風景画を描いたりして過ごすのでした。
 やりたい事ない? と訊くと、どこか海と山に行きたいと言ったのです。他には?と訊ねると、今までお世話になった方々を訪問してお礼を申し上げたいと。それには私が反対しました。先方はお別れにやって来たと思わないかしら、どう持てなしていいか困るんじゃない? って。それもそうだな、と即座にそれは取り下げたのでした。
 パソコンに打ち込む姿を見て心配になって訊ねた事があります。何しているの? まさか遺書? と。すると彼は真剣に怒り、私を呼びつけ言ったのでした。遺書なんて書くもんか、毎日の言葉が遺言だと思って聴いてくれ、と。叱られながら私は嬉しさも感じていました。怒る元気が彼の体力の回復を示していると感じられた事、もう一つは私をミサちゃんから、かよ子と呼んでくれるようになったからです。叱られて少しばかり狼狽(うろた)えもした私でしたが、彼が打ち込んでいたのは創作詩でした。そして後になって知ったのですが、自分が他界した後に出して欲しいと考えていたお礼状だったのです。
 彼を是非連れて行きたい所が私にはありました。奄美の島、それと彼が以前に暮らしていたという山小屋です。そこに行く事を目標に体力作りに励んでくれたらと考えたのです。でも彼からいい返事は貰えませんでした。島行きは先に延ばそうと言うのです、楽しみは後にとって置いた方がいいからと。八十五歳を越えた元気な祖父は会いたがっていましたが彼の気持ちを尊重して延ばす事にしました。
 それで、釣りに誘う事にしました。船宿に宿泊して沖釣りに出かけるというものです。体調を考慮して船は貸し切りにして貰いました。彼の気力が少しでも増す事になれば釣果はどうでも良かったのですが、船頭さんが秋アジのタナを見つけてくれて面白いほど連れたのです。手釣りの方がアタリを楽しむ事ができるよと勧められてそうしたのですが、指先にビクッと伝わってくる手応えはまさに魚の生命力をまざまざと感じさせるものでした。
 「アジは群れ魚だから一匹だけで揚げずに待てば一緒に何匹も揚げられるし、掛かったアジに他の魚が食い付く事もあるから」と船頭さんに言われてそうした私ですが、本当に一度で何匹もの銀鱗を取り込むのは爽快でした。ですが、見ると彼は一匹ずつ取り込んでいるのです。どうしてと訊くと、他のが食い付くまで待つのは先に掛かったヤツを苦しませる事になるからと言うのです。魚の殺傷をしていながらヘンなのですが、私はそこに彼の優しさを見た気になったのでした。
 嬉しい事がありました。彼は戻った船宿で魚を捌き切り身と内臓を別々の容器に入れて塩を振って持ち帰ろうとしたのです。クサヤを創ってみるつもりだと彼は言うのです。ムロアジではないからどうかな、と笑う船頭さんの横で私も笑いながら内心では喜びを噛みしめていました。おそらく一年以上はかかるクサヤを創るという作業に彼の命への意欲を感じたからでした。
 船宿での夜。彼に頼んだ事があります、催眠をして貰う事でした。高校生の時、彼に抱かれたと思いこまされたあの催眠です。催眠は専門分野だったという彼に前世催眠をして貰おうとしたのです。
 結婚した夫婦は二世の縁とか三世の縁とか聞きます、彼も言っていました。この世で強い縁のある人とは、過去世では夫婦や兄弟や親子だったり、或いは仲間や師弟だったりと深い繋がりの縁を幾度も繰り返しているんだよ、と。そこで、貴方との前世の縁を見せてと頼んだのです。
 退行催眠が始まり、潮の香りと潮騒の音が薄れていき、意識から深層意識へと沈潜していきながら年齢が朔行するのを感じていきます。少女の心から幼児に戻り、バビンスキー反射をして胎児へ、そうしてそれからずっと先に遡った前世、そこは私が予想していた風景ではありませんでした。彼との前世縁があるとしたら、どこかの島で二人は暮らして居はしなかったかと思っていたのです。
 しかし。足下に火が立ち、ザアザアと木々のざわめくそこは山の斜面でした。
 立ちこめる煙の中に人々の声はするのですが姿は見えません。しかし間もなく、一人の男が煙の中から姿を現しました。草履を履き、古びた着物一枚を藁で結び、長い髪を後ろで束ねて髭の伸びた男、それは紛れもなく彼でした。手にした生木で火を消しながらやってきたのです。二人で火を消しながら、これは野焼きだという事を私は理解していました、そして私達が焼き畑耕作をしている一族の中の夫婦だという事も。火が消える頃に現れた一人の少年、広い額にドングリ眼も可愛い少年が私達の子どもでした。小さな掌の中にムカゴを持てるだけ摘んでいます。それを私が受け取って、真ん中にした子どもの両手を二人で掴んで山を下っていく光景、それが彼との前世縁だったのです。 
 
 翌朝。誰もいない静かな浜辺を二人で散歩しました。遠くを航行する船を眺めながら彼が暗唱してくれたのが「頑是ない歌」だったのです。
     思へば遠くへ来たものだ 十二の冬のあの夕べ 
     港の空に鳴り響いた 汽笛の湯気は今いづこ
     それから何年経つたことか 汽笛の湯気を呆然と 
     目で追ひかなしくなっていた あの頃の俺はいまいづこ

 船宿で私が見せて貰った前世は一回だけでした。
 ですが、催眠で私が望んだものがもう一つありました。三百五十万年後の二人を見せてと頼んだのです。未来催眠とでも言うのでしょうか、できる? と訊ねたら、やった事はあるよと彼はいうのです。高校生達から自分の将来、つまり働く姿や未来の結婚相手とかを見せてと頼まれてやった事は幾度もあると。それでやって貰ったのです。
 そして私は三百五十万年後の世界に辿り着き、見たのでした、二人だけの世界を。
 お訊きになりたい? でも、ここでお話すれば、幸せが飛んで行きそうな気がしますもの。
 
 それからしばらくして山にも行きました。私としては彼が暮らしていた北アルプスの山小屋に行きたかったのですが、現在の山小屋の主に気を遣わせたくないと彼が言い、寒さもありましたので南アルプスの山に決めたのでした。
 それでも私は初心者ですし彼の体調もありましたので、シェフさんという彼の山仲間が付き合ってくれる事になったのです。シェフさんは北アルプスの山岳ガイドをしているという方でしたが、仕事の無い時は彼の山小屋で賄いの手伝いをする事もあったそうで、それからシェフと呼ばれるようになったという話でした。その時、ツェルネ或いはツェルニーと主人が山仲間の間で呼ばれていた事を私は初めて知ったのです。
 名前の由来は泊まった山荘で知る事になりました。シェフさんが主人を驚かそうと八人もの山仲間を内緒で山小屋に集めていたのです。山岳会を通してだったそうですが集まっていたのは主人の大学山岳部の先輩後輩、それと主人が営んでいた山小屋を利用していたという山男達。全員がヤマヤと自称される年季の入った人達でした。皆さん顔見知りの様子で、貸し切りの山小屋で囲炉裏を囲んで新顔の私に紹介して下さったのですが、憶えられませんでしたので前者をサンガクブ、後者をヤマゴヤとしてご紹介したいと思います。
酒 を酌み交わしながらの同窓会みたいな宴会は、主人の呼び名の話から始まりました。
 グリセード(註。ピッケルを支えに雪斜面を滑り降りる技)が得意ですし、ピッケルがツェルニーだったからでしょ、とヤマゴヤの一人が言ったのに対し、サンガクブが教えてくれたのでした、大学時代からツェルネの名がついていたのだと。集団山行では副リーダーが一番先頭を勤めるのだそうですが主人がそうだったので最初は一番と呼ばれていたらしいのです。でもそのうち単独山行を好む事も知られて単独者、略してツェルネと呼ばれるようになったと。
 主人の話題を中心に進み、私には興味深い真面目なものばかりでした。ですが、酒が進むにつれ寡黙な紳士ばかりと思っていた山男のイメージは全く裏切られていったのです。
 主人が教師を退職した話は皆さんが知っていました。「女で失敗したんだって?」と遠慮無く言ったのはジョウカミさんというサンガクブの先輩。四年間で卒業せずに神様扱いの四年部員の上に君臨していたからそのあだ名になったんだと主人が教えてくれました。「失敗じゃないでしょうよ、かよ子さんみたいな素敵な人を捉まえたのだから」とシェフさんが嬉しい事を言ってくれたのは良かったのですが、次第にオンナの話になっていったのです。
「女でツェルネは退職させられたんだろ?」としつこく訊いたのはジョウカミさん。  
「同棲がまずかったらしいですよ」「教え子の押しかけ女房の件か?」「校長の娘とヤッタリはしなかっただろナ?」「それは無いでしょ、ジョウカミさんのせいで我々は女嫌いになりましたからね」「そう。ジョウカミさんが仕入れてきた外国物のブルーフィルム、あれを視た時は強烈だった。なにしろAVもないビニ本の時代だったし」「初めて女性のヒブを映像で視て、俺、憧れていたオンナというものに幻滅して結婚しないと思いましたものネ」「何? お前、独身だったのか?」「いえ、免疫つけてから結婚しましたが」とやりとりしたのはサンガクブの面々。
 話は山での沈殿(註。天候不良による休養)日のイヤラシイ話に移っていきました「沈殿日のエロ話憶えているか?」「憶えちょる。いつも誰かがエロ本一冊を持ち込んでいたんだよ。沈殿の度に回し読みするもんだから内容をすっかり憶えてしまって」「それを新人に暗唱テストみたいに言わせてたんだよな、愛撫の手順とやらを」「あれでテクニックとやらを憶えてしまった」「今でも同期は皆、同じテクでやってたりしてーー」。
 大笑いするサンガクブの話を引き継いだのはヤマゴヤの面々。
「ツェルニーさんはシュンカも得意だった」「得意じゃないよ、付き合ってただけさ」
「ツェルニーさんは言ってましたよ、自慢話より春歌がまだマシだって」「そう。ヒトの山行や踏破の話はタメにもなるんだが自慢話も延々と聞かされると次第にイヤになってくる、って」「そんな時、ツェルニーさんが歌おうと言ってくれてたんだよ。女がいる時は健全な山の歌だったが、居ない時は春歌だった」。
 そして、誰が歌い始めるでもなく春歌の放歌になったのでした。私は最初、春歌という意味も解らず、そんな歌を聞くのも初めてだったのです。
    ♪ 一つでたホイのヨサホイノホイホイ 一人娘とヤル時にゃ親の承諾得にゃならぬ
     二つでたホイのヨサホイノホイホイ ーーーー
     九つでたホイの  校長の娘とヤル時にゃホイホイ 退学覚悟でせにゃならぬ 

 まるで山賊どもの宴会かとでも言うような、人里離れた山奥で大声張り上げての春歌が続く間、私は恥ずかしくて顔を伏せていました。でも、イヤではありませんでした。盗み見をしていたのです、手拍子しながら性、いえ生の歌を生き生きと歌っていた彼を。
「ダンチョネ節」という歌でお仕舞いになったのですが、それは主人の得意歌だったらしく、リクエストがあって朗々と発する彼の口上に全員が聞き惚れたのでした、勿論、私も。
  ― 富貴名門の子女に恋するを純情の恋と誰が言う 路頭にさまよう女に恋するを 不浄の恋と誰が言う
  ― 酒は飲むべし百薬の長、女は買うべし人生無情の快楽 妖艶美女の膝枕快楽なるも 一夜開くるれば夢も無ければ

    金も無し 汗ばむ身体にザイルを託し かじかむ身体にピッケル抱き 我ら山入る山男 明日の命を誰が知る 
     いざや歌わんかな ダンチョネ節を。

 翌朝。全員揃って山頂でご来光を待ちました。雲海を突き破るかのようにしてお日様が姿を現した時、ジョウカミさんがオンドを取ってくれたのです。
「ここに集いし一同、縁あっての一緒の登頂に感謝するとともに、なお且つツェルネの快癒を祈り、礼拝」と。
 縦走に向かうグループもあったりで下山はそれぞれでした。私達の荷物を担いでくれたシェフさんも別行動で下りて行きました、二人きりにしてあげたいと考えたのかも知れません。晩秋の煙る木立の中を、彼と私は語らいながら時に手を繋ぎ、ゆっくりと下りていったのです。木洩れ日がきれいネ、と私が言った事から彼が詠み始めたのが谷川俊太郎の「生きる」という詩でした。二十年昔、高校生の時に初めて彼が教えてくれた詩なのですが、記憶の拙い私は輪唱みたいに彼の後を続けていきました。

 【生きる
  いま生きているということ それはのどがかわくということ 木もれ陽がまぶしいということ 

  ふっとあるメロディを思い出すということ くしゃみをすること あなたと手をつなぐこと
   ――――
  いま生きているということ 鳥ははばたくということ 海はとどろくということ
   かたつむりは はうということ 人は愛するということ
    あなたの手のぬくみ いのちということ 】

 彼の命の炎が燃え尽きたのは、思い出の山行から間もなくの事でした。蝋燭の炎が燃え尽きる寸前に火勢を上げてから静かに閉じるように、彼も又山行をを終えると最後の仕事を成し遂げたかのようにして永遠の眠りに就いたのでした、南アルプスの山々が初冠雪に覆われた朝でした。
 愛用していた登山靴を棺に入れ遺言通り私は一人だけで密葬をすませました。
 寂しくも辛くもありませんでした。強がりではありません、この世での生は燃え尽きましたが、彼の愛情溢れる言葉は私の胸の中で熾き火のような火種となって永遠に燃え続けると確信していましたから。
 山道を下りながら彼はこんな事も語ってくれたのです。
 ― ミサちゃんが高校の時から、同じ方向を一緒に歩ける人だとボクは思っていたよ。二人とも詩を好きというだけじゃないよ、一緒に郷土研究部を創った時からキミは島の事を本当に好きになっていったでしょ、ボクは第二の故郷と思うくらいに島が好きだったからキミとなら一生、島を語っていけると思っていた、そして何時の日か二人で島で暮らせたら、ともね。
学校を去ったのはキミが自宅学習に入った二月だった。生徒の卒業というのは寂しいものなのだよ。自分で丹誠込めて創った作品を手放す芸術家の気分にも似たものだと思うよ、きっと。ミサちゃんは特別な人だったって前に言ったでしょ。お爺さんからも嫁にと頼まれた、そんな特別な人を抱けるハズがないでしょ、解るよね。
 キミが就職していった事も結婚した事も知っていたよ、離婚の事は知らなかったけど。ボクには遠くでキミの幸せを祈ることくらいしかできなかったんだ。
 
 私が訊ねた事があります、どうして釈明しなかったの?
 うん? と振り向く彼に言いました。
 ― 女の人は押しかけて来たんでしょ。私の事だって、抱かれに来たのに抱かなかったって、どうして校長先生に申し開きしなかったの?
 しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと語りました。
 ― スキーの後ってシュプール、滑った跡が残るでしょ。グリセードも同じなんだ。振り返ればそのままに痕跡が残っている、真っ直ぐなのも曲がったのも。その跡を誤魔化せはできない。マルクスと言う人を知ってる? 彼がこんな事を言っている。【自分の信ずる道を歩け。そして人の語るにまかせよ】と。ボクはその言葉が好きでね。人の語るにまかせよ、そんな人生を歩きたいと思っていた。
 好きな山に隠ったボクはマルクスの言う社会的存在からは遠かったと言えるかも知れない。でも自分らしさを失う事、自己疎外と彼は言うんだがそれは無かったと考えている。
 かよ子、夏山の時期になったら一緒に行こう。グリセードを教えてあげよう。残雪の上をスピード上げて滑走するのは気持がいいぞ。そうだ、ピッケルも買わないとナ、と。
 私はそれで応えたのでした。同じピッケルが欲しいわ、お揃いのツェルニーがネ、って。

 年が明け、小鳥たちが一斉に恋の囀りあいを始める頃、私は彼の遺骨を抱いて故郷の奄美の島に帰りました、遺言の約束を果たす為にです。
 彼の遺言それは、お墓は要らない、自分を山と海に散骨してくれというものでした。海は奄美の海よネ、山は貴方が暮らしていた山小屋のある山? と訊ねたら、かよ子にはそこの山頂は無理だからどこの山でもいいよ、日本列島は一つの山の繋がりみたいなものだからと彼は笑顔を作って答えたのでした。
 昨日、遺骨の半分を島一番の高地に埋葬しました。
「この島は隆起サンゴ礁の島だから、三百五十万年後にはここが日本一高い山頂になる。その時一緒に登ろう」と彼が言い、約束した場所です。
 頑是ない約束だと思います。
 その頃日本という国が存在しているかだって解りません。
 山への散骨を彼は望んだのですが、島を一望できるこの場所に私は決めたのです。先生と生徒の関係のままでしたら約束違反だと彼に怒られたでしょう。でも妻になったのですから許して貰います。
 祖父が船を停止させた島の沖合い、その海上から彼をゆっくりと散らしていきました。細かく白くなった彼が碧い海に溶けていきます。海底の白いサンゴ岩礁の上に彼は抱き合うようにして重なっていくのでしょう。好きな奄美の海と解け合って喜ぶ顔が波濤の上に一瞬浮かんだ気さえしました。
 祖父と一緒に黙祷を捧げた後、私は封筒から紙片を取り出しました。この世を去った後に出してくれと彼から託された手紙の一つです。祖父への宛名書きは彼の直筆でしたが、中はパソコン文字です。
【今生のご縁ではお世話になりました。報恩も叶わないままお先に参りますが、天上より皆様のお幸せを見守らせて戴くことと致します。
 後世でのまたのご縁を楽しみにお待ち申し上げますが、どうぞ来世へはごゆっくりといらっしゃいますように。温かくご厚誼を賜りましたご親切に心より感謝申し上げ、今生でのお礼の言葉とさせて戴きます。
 妻が制作中の私の詩集を出来次第お手元にお届けする事になっております。

 形見と思ってお受け取り下されば幸いです            合掌】

 波に揺られながら私は、閉じた瞼を通して届く優しい海面の光を感じていました。そして、彼に一度だけ見せて貰った三百五十万年後の世界、それを想起していたのです。
 着いたよ、と彼の声がしました。
 着いたのは三百五十万年後の世界? それとも島の山頂? と意識を集中させて探ると、繋いだ手の先に彼を感じました。
 最初に思い浮かべたのは、私と彼のどちらが先生? という事でした。最初に約束した時、「その時は私が先生だからね」と宣言した私ですから。
 私? と思ったら私の手の方が先になりました。そしてすぐに、私も彼も輝く光に包まれて姿は消えてしまったのです。二つの魂だけが解け合っているそんな感覚でした。心地よい調べも届いていました。何の音? 潮騒? と思ったらザアーッと浜辺に押し寄せる波の音となり、小鳥かしらと思ったらピーヒョロと赤ショウビンの妙なる鳴き声になるのでした。懐かしい潮の香りもして、新緑の清々しい香りも届きました。それに大好きな彼の体臭はずっと感じていましたし、今まで味わった事のない至福の感情、いえ感動に充たされ続けていたのでした。
 かよ子、三百五十万年後の世界に浮遊していたその間ずっと、キミは満面の笑顔を湛えていたよ、と彼が覚醒後に教えてくれたのでした。

 風の眠る朝、私は彼の高地に愛用したピッケルを立てに行きました。

【最愛の人ここに眠る かよ子】と彫り込みを入れたツェルニーです。

 傍らに真っ赤なハイビスカスを捧げたら、北国のピッケルに南国の花がとてもお似合いのようで、すっかり満足した私です。
 夜もまた、高台に車を走らせました。潮風が髪と頬を優しく擽っていくのにまかせたまま大島海峡を眺めていると、航海灯を点けて南下する船から汽笛の音が聞こえてきました。見上げた頭上、満天の星の間に私のことを一番見守ってくれる彼がいる筈です。
 私は耳を澄ませます。

〈ここは未だ山とは言えないだろ、かよ子。約束が違うじゃないか〉とボヤく彼の声が聴こえはしないかと思ったのです。

 ですが、聞こえたのはボヤキではありませんでした。元気だった頃の優しいテノールの響き、それが次から次へと私の耳に届いてきたのでした。
  ―   生きているということ、いま生きているということ
  ―   いざや歌わんかな、ダンチョネ節を。アイン、ツバイ、ドライ、そぉれ!
  ―     思へば遠くへ来たもんだ あの頃の俺は いまいづこ
   

 

 

                                        頑是無い約束 完




本作品は、中原中也生誕百年を記念して二千七年と翌年にかけて執筆したものです。

参考資料
『集成・昭和の詩』大岡信編小学館より
北川冬彦「いやらしい神」より「春」――蟹がぶつぶつ
小熊秀雄「しゃべり捲くれ」――私はいま幸福なのだ
山之口貘「現金」――だから女よぼくの女房に
黒田三郎「紙風船」――落ちて来たら
『言葉の流星群』大岡信編集英社より
中桐雅夫「小さな遺書」――わたしが死んだ時には思い出して
白石かずこ「池」――帰りな といった
『美しい日本の詩』大岡信谷川俊太郎編岩波書店より
阪田寛夫「葉月」――女に二時間待たされたから
大岡信「はる なつ あき ふゆ」―はるのうみ
『寺山修司詩集五月の詩』サンリオより
寺山修司「幸福が遠すぎたら」――さよならだけが人生ならば
     「かくれんぼ」――は悲しいあそび
『詩の世界』高田敏子ポプラ社より
谷川俊太郎「生きる」 

 

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