ヒプノ 鹿児島
頑是ない、約束
1
警察と教師の言う事を間に受けるな、アン衆は昔から「お前達の為に」と言いながら俺達を瞞(だま)しに来たのじゃから、と誰彼と無く幾度も聞かされて育って来た私にこの人は言いました。キミが有名なかよ子君か、話したいと思っていたんだ、話すの始めてだねと。
私はそれに尖(とが)った目で応えたのです。有名ってどういう意味? こんな鉄格子の部屋に閉じこめてどうする気? 犯罪者扱い?
一瞬のたじろぎを見せた後、この人は答えました。有名は失言だ、謝る。鉄柵はワケありでネ、と。僅(わず)かに泳いだ目の中に彼の誠実さが見えた気がしたのでした。
小さなテーブルと一対の椅子だけの小部屋。そこで私は色々と訊かれました。しかし答える事は一切せず、狭く仕切られた窓越しに見える青空と、取りたての魚の鱗のように銀色に輝く海原を眺めていたのでした。が、この人が部屋を出ようとした時、私は黙ったまま窓の外を指差したのです。「うん? 入道雲かい? もうすぐ夏だな」、そう言って出て行く後ろ姿に私は毒づいていました、「バカなヤツ」と。
梅雨の終わりを告げるかのように東の空に入道雲が立ち、その下を大きなフェリーが滑るように出港していきます。この時刻だったら沖縄行きかな、とか思いを巡らしていた時、この人が再び駆け戻って来て、息を切らし目をいっぱいに見開いて声をあげたのでした「ミサちゃんか? キミ」。
返事代わりに私は睨(にら)み付けてやったのです。バカなヤツ、一目惚れしたと言っておきながら私に気付かなかったなんて。それでも、額に汗を残したまま見つめる真剣な眼差しに小さく肯いたのでした。すると獣が吠えるようにオオと大声をあげてこの人は私の手を握りしめ、夢中になって語り始めたのです、私たちが始めて出会った日の事を。
三年前の夏のこと。私は祖父母の住む奄美群島の中の小さな島、幼い頃に育ったこの島に遊びにきていたのでした。
甥っ子を連れて出た近くの海辺、そこにこの人がいたのです。
仰向けのまま波に任せて浮いていたこの人を、すぐに島の人ではないと気づきました。島の人ならたいていが夕方の涼しくなった頃に海に出てくるのですから。でも、ずっと流木みたいに漂(ただよ)っている変わった人を気にしていた訳ではありません。島では色々の漂着物が海からやってくるのは珍しくもない事と考えられていましたから。私はヤンチャ盛りの甥っ子から目を離せないでいたのです。が、甥っ子が不意に私の手からノートを奪い取った時のことです、紙片が風に乗り、一枚が遠くに飛んで海に落ちて行ったのです。すると浮かんでいたとばかり思っていたこの人が紙に向かって泳ぎ始めたのです。私は叫びました、拾わないでと。動きが止まり、なんで?という声が返ってきました。だめ!と私は声を振り絞りました。それが最初の会話でした。
その出会いを、私の両手を掴んで握りしめたままこの人はひたすら喋り続けたのです。
「翌日、遅くなってしまった。キミが帰ってしまったんじゃないかとボクは不安でね、自転車をぶっ飛ばしたせいでアダンの坂道で転んで膝を擦りむいてしまった。ただ会いたかったんだ。キミに一目惚れしてしまったみたいなんだよ。ボクは入道雲を見るのが好きでネ、昨日も紺碧の空に描いたような入道雲が昇っていたのに見とれて浮かんでいたんだ。だが、声がして目を奪われた。キミ、こっちを向いたままで屈んでいたでしょ。見えたんだよ、胸元が。白サンゴの砂よりずっと純白で眩(まぶ)しいほどに輝いていた。一目惚れしたのはその時だ、無論オッパイになんかじゃないよ、人が覗き見する事なんか微塵も疑わないで無邪気に子供と戯れていたキミ自身に、だ。萌葱(もえぎ)色のブラウスがすっくと立った足にとっても似合っていて、モクマオウ林を抜けた風がキビ畑の薄く甘い薫りを乗せてくるんだが、ボクにはキミの薫りだと思えたんだよ」と熱に浮かれたみたいに喋ったのでした。
あの時。春を待ちかねた鳥が息をする間も惜しんで恋を囀(さえず)るみたいな明け透けな言葉に私は恥じらい俯いて聞くばかりでした。名前は? と訊かれて黙ったままでいたら甥っ子が答えたのです「ミサ姉ちゃん」。するとすかさずこの人は訊きました。「ミサちゃん、ボクが拾おうとした紙をなんでダメって言ったのかな?」。「恥ずかしかったから」と始めて小さく答えると「どうして?」と問いつめるのです。「詩を書いていたんです」仕方なく言うとこの人は一層詰め寄り、堰(せき)を切ったように語ったのでした。
「詩って? ミサちゃん、詩を書いてたの? 凄い出会いだなぁ。キミの詩が空に飛んだあの時ボクも詩を思い浮かべていたんだ。『思えば遠くへ来たもんだ 十二の冬のあの夕べ 港の空に鳴り響いた 汽笛の湯気は今いづこ』。中原中也だ、知ってる?」
首を横に振る私に訊きました「ミサちゃん、今幾つ、中一くらいかな?」
「中二です」私の答えにこの人はつと私の両手を握り、頼み込むように言ったのでした。
「この島の高校に進学しておいでよ、ミサちゃん。ボクは高校で国語教えているんだ、いっぱい詩を教えてあげる。キットだよ」と。
でも、それっきりでした、私は両親の住む内地の学校に進学しましたから。
それから三年と半年を過ぎた高校三年の初め、私はこの島の学校へ転校してきたのです。そして、私を気付かなかったこの人と再び出会ったのでした。
なぜ私が三年生になって島に行ったかをお話しなければなりませんか?
祖母が入院する事になって祖父の世話役が必要になったからというのが表向きでした。でも本当は私に手を焼いた両親が島に戻したというのが理由でした。「不良少女」、それが当時の私に付けられたレッテルだったのです。
大人というものはとかくレッテルを貼りたがるものですね。得体の知れないものは不安だからそうするのでしょうが、多感な年頃になっていた私はそうした大人達に反発を始め、大人達の望む「素直な子供」の枠から次第に逸脱(いつだつ)していったのでした。
それは高校生活から始まったのです。高校では「私達のために」溢れる程の生活規則が用意されていました。私は赤茶っぽい髪が染めたもので無く、生まれつきであるとの証明を生徒手帳に書き込まれ、疑う教師には手帳を見せなければならないのでした。疑う教師は私の髪を勝手に探り、耳のピアスの穴がないかまで見るのです。下着を着けているかをセーラーの上着を捲って見せろと言われた事も幾度かありました。黙って従う事に耐えられなくなった私は教師に反発を始めました。途端、「問題生徒」扱いされるようになったのです。私の教師不信は増大していきました。「生徒のために」というのがマヤカシに思えてきたのでした。「あんたの為」はウソ、教師自身の「自分の為」ではないかと。「おためごかし」というやつです。そう思う生徒は多くはいません、でもその少数の生徒達とはとても共感しあい仲間になっていきました。
仲間との最初の頃のワルは先生を試す為にやっていたような気がします。「生徒の為」という先生達の根っこを見たかったのです。それは段々エスカレートしていって「不良少女」のレッテルが貼られた時には、もう「腐ったリンゴ」か「バイ菌」扱いされるようになっていました。学校は私達の教育の事より他の生徒達に害毒が及ばないことを考えるようになっているとしか思えませんでしたし、何人かの仲間は方向転換という名目の退学になっていきました。心配した両親によって私は祖父母の住む島に転校扱いという事で帰されたのです。高校三年が始まる早春の事でした。
祖父母に心配をかけたくない思いから、転校当初は私も心を入れ替えてみようと頑張ってみるつもりでした。しかしピアスの穴が見つかり、前の学校に問い合わせをしたのでしょう、教師達の私を見る目が以前の学校の教師達と同じになるのに時間はかかりませんでした。島の純朴な子供達に都会のヘンな空気を持ち込まなければいいが、多くの教師達の私に対する思いはそんなところへ来ていたと思います。
ですがこの人は、一向に私に気付きませんでした。他の教師みたいに特別な目で私を見ていなかったという事なのでしょうか、しかしそれは少しだけ寂しくもありました。一目惚れしたと言っておきながら、今頃気付くなんて。
鉄格子の部屋で私の手を握り締めたまま、この人は繰り返し言いました「なんでかよこ子なの? ミサちゃんじゃなかったの? 名前が変わっていたから解らなかったんだよ、でも長い睫毛(まつげ)と白い歯はやっぱりミサちゃんだ、会えて嬉しいよ」と。
翌日もその小部屋で一日を過ごしました。教師に反抗した私に与えられた指導は謹慎による内省という事で、教育相談係だったこの人が担当になったということだったようです。
私は名前の話をしました、ミサ子は童名(ワラビナ)だと。島では幼児は神の子として育てられる。その時、本名と別の呼び名が使われる、それは童名といって大人になってもそのまま呼ばれ続けている人もいる、と。
興味深げに聞いた後、この人は言ったのです。
「ミサちゃん、郷土研究部を作ろう、ボクが顧問でキミが第一号部員だ」。
強引な提案で私を承知させるとすぐに正式な部活動として発足させたのでした。こうしてその日から私は授業を持たれていなかったこの人を先生と呼ぶようになったのですが、私の方はミサちゃんと呼び続けられる事になるのです。他の生徒と違い「ちゃん」付けで呼ばれるのに悪い気はしませんでしたが、特別に先生と親しい関係になろうとは思っていませんでした。鉄格子の部屋で最初に会った時、「ボクはキミを信じるからネ」と手を握りながら言ってくれたのは嬉しかったのですが。それに「授業の担当がないから詩を教えてあげる約束は部活の時にしよう」と言ってくれた事も。
私はその時、先生が新婚だとの噂を聞いていたのでした。そして間もなく次の噂も聞こえてきたのでした、結婚じゃなくて同棲だというもの。旧い土地です、先生が同棲なんてという悪評にも近いものでしたがそれを私は先生に確かめようとはしませんでした、元々生徒と先生の関係だったのですから。
郷土研究部の活動は先生の気が向いた時に二人で出かけるものでした。史跡などについては私が先生役で教える事の方が多いでしたし、学校近くの海辺にもよく行きました。車で一周四十分ほどの隆起珊瑚礁の島に砂浜は五カ所ほどしかないのですが、四年前に始めて出会った砂浜、そこで先生は私にたくさんの詩人を、詩を教えてくれたのでした。
今でも憶えているのは、「会話」の山之口貘、寺山修司、宮沢賢治、「どこかに美しい村はないか 一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒」の茨木のり子、谷川俊太郎の「今いきているということ」、川崎洋の「結婚行進曲」、吉野弘「祝婚歌」。「戦争が終ったときパパイアの木の上には白い小さい雲が浮いていた」の黒田三郎とか、です。
「黒田三郎の『紙風船』という詩はフォークソングになっているんだよ」と「落ちてきたら今度はもっと高く 高く打ち上げようよ」とギターで歌を教えてくれたのでした。
歌を憶えたものは他にもあります。
「中原中也の『頑是ない歌』は海援隊というグループが『思えば遠くへきたもんだ』と歌っているんだよ」と、これも先生のギターに合わせて一緒に歌ったものでした。
呪文のように憶えさせられた詩は今でも忘れられません。大岡信の詩でした。
「はるのうみ あぶらめめばるのりわかめ みるいひだこさはらさくらだひ はまぐりあさり さくらがひやどかり しほまねきひじき もづくいそぎんちゃく」と、季節ごとの魚や貝の名前を憶えていくのは楽しいものでした。
「ミサちゃん、君の詩に曲を付けようよ」と言われたりもしましたが、見せる事はありませんでした。「詩には世界や人生が凝縮して表れているんだ」という先生に、心まで読み取られそうな気がして恥ずかしかったのです。詩が終わってから先生は泳いだり潜ったりする事もありました。誘われましたが私は厭(いや)でした、男の人の水着姿を身近で見るのも勿論、自分の水着姿を見られるのも。自分の肢体をさらけ出すなんて。自分が純情娘だったと言い張る気はありません、「不良少女」と言われた私ですから。でも体を身近に見せる、そこに性的なものを感じるのが厭だったのです。私は黙って先生を置き去りにして帰ったものでした。
ある時、帰り際に振り返ると先生は渚でしゃがみ込んだままでした。
「何を考えていたの? 先生」と翌日訊いてみました、そしたら先生は言いました
「独り残されてさ、オレ泣きぬれて蟹と戯れていたんだ」と。そして準備していた詩は「蟹がぶつぶつ泡をふいている。(略)その眼も面も鋏まで泡だらけじゃないか。一体、何が、そんなに気に入らないんだ(北川冬彦)」というものでした。
潜って取った夜光貝を自慢気に見せてくれた事がありました。掌ほどの大きさの貝を先生が得意満面に見せたので「バケツくらいの大きさのがウチにはあるわ」と言ったら「大きいのがいい訳じゃないよ。見においで」というので、放課後校舎の隅に行くとその貝殻を自分で加工していたのです。塩酸で汚れを取りグラインダーで切断してから研磨していくと美しいパールホワイト色の真珠質の層が出てくるのです。それから水ヤスリをかけ、きれいな丸い輪になった貝を私の腕に合わせて切断して端っこを丁寧に削ると真珠色に輝くブレスレットが完成したのでした。「種子島の広田遺跡から同じ形の腕輪が発掘されているんだよ」と先生に聞いてから腕に廻すと古代の女王様になった気になりました。「郷土研究部員第一号のミサちゃんに」とそれを渡そうとするので「奥様にあげたら」と返そうとしたら首を捻(ひね)り「ミサちゃんに合わせて作ったのだし、似合うよ」と押しつけたのでした。
奥さんを一度見た事があります。買い物していた時でした、先生に声をかけられたのです。「ここの山羊肉を刺身で食べられるかい?」と訊ねられ「外国産の冷凍肉だからダメ、刺身用は精肉店よ」と教えたのですが、離れた所に立っていた女の人が奥さんのようでした。綺麗な人でした。
天気が良い度に海に誘われたので「先生は貝か魚の生まれ変わりじゃないの?」と冷やかした事があります。そしたら先生は言いました「ホントはヤマヤなんだよ」と。ヤマヤ?聞き返すと、山男と答えたので「最初からそう言えばいいのに」と言ったら「自分から山男だと気取るのはいないよ」と答えて山の話をしてくれたのでした。
「大学で山岳部にいた頃は年中、山に入っていたんだ。そのうち独りで山に行くのが自分に向いていると思った。山の魅力かい? 独りきりになれるところかな」と言うので「寂しくないの?」と訊いたら「人恋しさを実感する為に山に入るのかも知れない」そう答えたのでした。「山は好きかい?」と訊かれたので、興味ないわと答えたら、砂浜に数字を書き、しばらくして先生が言ったのです。
「四百万いや三百五十万年後だよ、ミサちゃん。生まれ変わってこの島で会おう。一年に一ミリ、このサンゴの島は隆起しているんだ。そしたら三百五十万年後に日本列島一の山になる。その時は山を教えてやるよ」と。
それに私は答えたのでした「いいわよ。でも生まれ変わりの時は私(ワン)が先生だからね」と。
島唄を教えてくれないか、と頼む先生に、私は祖父母から習っていた歌を浜で教えるようになりました。いつか蛇皮線で歌いたいと考えていたらしい先生は、ギターで練習を始めたのです。六弦のうち下の三弦だけを蛇皮線と同じに調弦してそこを弾くやり方でした。細い竹ベラも用意してバチの返しまで練習しようとしていました。
始めて教えた唄は「諸鈍長浜節」という唄で「諸鈍女童(メラビ)ヌ 雪のロの歯茎 何時にユが暮れて御口吸ゆる」という、娘はいつキスをされるのだろうという艶めかしい歌詞部分もある唄でしたが、正直その時は奥さんのいる先生を意識していた訳ではなかったのです。
一緒に釣りに行こうと、何度も誘われたので言いました「郷土研究部は遊びばっかしかい?」と。「何とかかい?」という言い方は島の娘がよく使う島口(方言)なのですが、ムキになったのか先生は「じゃ、今日は勉強だ」と、あの鉄格子の部屋に連れて行き、そこで自分のノートを開いて私に教え始めたのでした。
「蟹を赤子の頭において早く這えと願う風習が島にあるだろ、あれはコゴシュウイという旧い本に書いてあるんだ」とか、「いらっしゃいというのを島でメンソーレと言うだろ、あれは『参り候らへ』という古語から来ているんだ」とか、憶えたのはその二つだけです。
その時、この相談室の鉄の窓枠がホントに自殺予防の為に出来ているのだと知りました。先生が実際にあった話をしてくれたのです。自殺で亡くなった生徒を思い出して語る先生の目は引き込まれそうなくらいに深い悲しみに満ちていました。その時、私の胸はキュンとなったのです、始めてでした。でも後がいけなかった。「どうして先生になったの」と訊いた私に、涙ぐんだ眼に笑顔を作って答えたのです「ミサちゃんみたいな生徒と出会うためだよ」と。私はプンとして部屋を出ました。〈みたいなって何? みたいなは余計でしょ、バカ〉と呟いていました。
仕方なく釣りにも付き合いました。どこが釣れる? と祖父に聞いたら、油ドゥルイと島でいう凪(なぎ)の日に祖父が沖の堤防まで小舟で渡して呉れたのです。サビキでの釣りでしたが、潮が良かったのか餌のオキアミを撒くと色とりどりの魚が真下にいっぱい寄って来て「水族館みたいだ」と先生は興奮し、そして二人で赤や青のウルメを小型のクーラーに入りきらないくらい釣ったのでした。大漁だったのに先生が悔しがった事があります。仕掛けが小さかった為に鰹や皮ハギに針や糸が食い千切られた事です。餌カゴまで咬み砕かれる始末でそれを無性に悔しがるのがおかしいのでした。
パンを昼ご飯にした先生に私のお握りを分けてあげると美味しそうに食べていましたが、奥さんは作って下さらなかったのか不思議に思ったものでした。
「二人きりにして心配じゃったが、先生、このコに悪さしなかったじゃろナ?」とふざけて訊いた祖父に真面目に大きく手を振って打ち消す様子もおかしかったのですが、その夕、突然先生が訪ねてきたのです。船で渡して貰ったお礼を何かしら持って来たのでしたが、その時の言葉に私も祖父も驚かされたのです。「気持ちばっかりデンド」との旧い島口を使った先生を気に入った祖父は家に上げて黒糖酒を振る舞ったのでした。
「ミサの母親も村一番の美人と言われたんじゃが、この子は母親よりも綺麗でナ、親より綺麗な娘を島ではムキザシと呼ぶんじゃよ」と祖父が言うと「鳶が鷹ですか、ア、違うかな」とすぐに先生は相槌を打つのです。祖父は先生に聞かせるように私に言うのでした「玉黄金 親や産(な)しど産しゅる 肝魂(チムマブリ)付けては産しゃならぬ」(註。親は子を産む定めがあって産んだ。だが心や魂まで付けては産めないのだ)。だから自分の責任で努力せよという島の諺です。
「夜ヌ蝶(ハビラ)は祖先(ウヤフジ)の霊魂(マブリ)」だとか、島の習俗などを説明する祖父に「蝶を古語では『かはらびらこ』と言ってたみたいです」とか、「ヒュウモン蝶の雌は飛ぶ時に羽をウインクするみたいにして、『まばたき効果』というらしいのですがそれで雄を誘うのだそうですよ」と先生が語ると、祖父は馬の話など始めたのです。「昔、この島でも闘馬というのがあって牡馬同士を闘わせたんじゃ。闘わない時どうしたと思うかね? 先生。二匹の間を牝馬を引いて通るンじゃったと。途端に激しく噛み合い始めたんじゃチ」とか「本島の旧い話に蛇が娘を孕(はら)ませたチ話しはいくらでもあっての。クロウサギもそうじゃ。世の主の娘をハブが孕ませた。怒った世の主はハブを皆殺しにしようとした。それをクロウサギがハブに報せたんじゃチ。怒った世の主はクロウサギの耳と足を短く切り落とす罰を加えたそうな」とか。
話はあちこちに飛び、「村を出る娘に若衆が水を掛けて追い出す水掛け婚のしきたりもあった」とか祖父が話す頃には二人は大部酔っていたようでした。が突然、祖父は先生に「先生は独身な? 家のミサを嫁に貰ってくれんかい」と言ったのです。私は狼狽(うろた)えました。でも、「独身なんですが、ミサちゃんは生徒ですし」と奥さんのいる事を平気で隠す先生に腹を立てて部屋を出たのでした。それでも酔うほどにイヤラシクなった話が隣の部屋まで聞こえて来たのです。「入り江の先の小島をナ、こちらの村の女神と隣の村の男神が争った時よ。女神が大事な所を見せて男神を誑(たぶら)かせ、その隙にこっちに引き寄せたんじゃチ」とか「淋しい病を貰った時はナ、オシロイ花の、夕方に咲く花の根を煎じて飲んで治したものよ」とか、話すのは祖父なのですが先生は声あげて愉快に笑うのです。あげくには、サックとかスキンとかの言葉まで聞こえてきたのです。不愉快になった私は、祖父が泊めてやろうか? と訊きに来た時、タクシーを呼んで先生を送り返したのでした。
その翌日、相談室の奥の格子の部屋にスキンの袋が開けてあるのを見ました。祖父から先生は作り方を聞いたのでしょう、スキンを裂いて釣り針に巻き付け特製のサビキ針を作るのがその頃流行り始めたと聞いていましたから。こんなのを誰が使うものか、私は釣りの誘いに二度と行く事はありませんでした。
先生を一度だけ家に招いた事があります。「島遊び」と呼ばれている秋の村祭りの日に、島の研究をしたい先生じゃろうから、と祖父が招いたのでした。年中行事の中でも盛大な祭りです。広場には四本柱が立ち中に土俵が作られ相撲大会が開かれます。この日の為に若者達は一月くらい前から練習に励むのです。登山で鍛えた体に自信があったのか先生も飛び入りで出たのでした。漁師達にも劣らない体で力は互角でしたが足技で投げられてしまいました。が、その後で高校の先生だと紹介があった時でした、勝ち花より多くの負け花が歓声と一緒に土俵に飛んだのです。負け花というのは敗者へのご祝儀で、それを受け取りながらテレた先生の様子にまた盛大な拍手が起こったのでした。
相撲の後は土俵の周りに全員が輪になって八月踊りを踊ります。浴衣の私の後ろに先生は続きました。蛇皮線と小太鼓が鳴らされ、指笛が混じり、歌いながら一斉に踊るのです。
♪お十五夜の月ヌ 斯ン清らさ照ゆり 吾愛人(ワンカナ) 門に立てば 曇て給れ ヤイコラサア
見様見真似で踊っていた先生でしたが六調子踊りになるとダメでした。早い調子で手招きするように掌を返して踊る簡単な踊りなのですが、掌の返しが出来ずにみんなからネジ回しみたいだと笑われたのです。終わった後、家で私の手料理を食べながら祖父と黒糖酒に酔った先生でした。
突然の事件が、私の身に降り掛かってきたのは島の長い夏が終わりに近づいた頃でした。渡り鳥のサシバみたいに、本土から邪悪な影がやって来たのです。姿を見せずにそいつは電話で忍び寄ってきたのでした。
〈○の友達なんだけどヨ、アンタに会いに島にやって来たんだ〉、とそいつは言いました。○というのは昔の仲間で親しくしていた娘でした。誰にも連絡先を教えていなかったのにここまで訪ねて来た用件とは、訊きましたが「会って話す」とそいつはネチッとした声で答えるのみでした。出て来いと言われた場所に行かなかった翌朝、早い電話で起こされました。相手の番号を知る事も留守番機能もなかった頃の電話です。本島の病院に入院したままの祖母の急変を報せる電話かもと思えば取らない訳にはいかないのでした。運悪い事に祖父は漁船に乗っていて私は一人でした。祖母の入院費を稼ぐ為だったか、急に船員に人手が足りなくなって頼まれてだったか、元気だった祖父は手伝いで乗っていたのでした。近海での漁なので長くても一週間ほどなのですが漁次第なのです。「今日、家に行くぞ」と言った男の言葉を思い出しては、台風の荒波に打たれるがままの小舟のような不安に包まれていた私は、学校が終わるとバイクを先生の家へと向けていました。
でも、先生に悪いヤツがやってきたとは言えませんでした。言ってしまえば、私の過去をそして会ってもいないヤツが私に何を要求するかの予想までも言わなくてはならないでしょう。何も言えない言わないまま、私は先生に泊めて下さいと頼んだのです。首を横に振り出来ないと言う先生に、私は黙って立ち去るしかありませんでした。奥さんがいるから泊められないのだと思いながら、靴箱に女物の靴が無いのに気付きました。奥さんがいないから泊められない? とも考えましたがそれ以上考える余裕も無く、独りの家に戻ったのです。
雨戸に堅く閂(かんぬき)をおろして閉じ隠った夜半、やって来たのは一人ではありませんでした。いるのはわかっているんだ、と大声をあげるヤツラと私は雨戸越しに話したのです。
< ○が金を使い込んだ。百万を超す金をお前と使ったと言った。弁償しろ、オレラの所に来い>、とヤツラは言うのでした。行ったが最後、稼ぐ為にクスリの売人をさせられるか、売春(ウリ)をさせられるか、そういう話を聞いてもいたのです。ヤツラは執拗(しつよう)でした。島中にお前の過去を言いふらすぞとか、ぶっ壊すぞと言いながら激しく雨戸を叩きました。警察を呼ぶと私が言っても騒ぎは続き、静かになったのは隣の人が物音に出てきたからでした。
翌日も電話は朝から鳴り帰宅後も鳴り続けました。耐えきれなくなり外を窺った時、小雨の中に闇が降りようとしていました。バイクを素早く出して向かったのは先生の家しか無かったのです。事情を言わないまま再び先生に必死に頼みました、泊めて下さいと。
そしてその夜。私は自分からキスを迫り先生に抱かれたのです。強く決意はしてきたものの緊張している私を先生は優しくリードしてくれました。体の力を抜くんだよ、と。そして私は初めての男の人を迎え入れたのでした。
バイクで戻る翌朝、私は自信が漲(みなぎ)るのを感じていました。男の人を知ったのです、もう怖い物はない、ヤツラと渡り合ってやる、そんな勇気すらわいていたのです。
ところがヤツラの姿が消えてしまったのでした。電話も来ませんでした。随分後になって知ったのですが、甥っ子の父親でオジにあたる人が隣の人から騒ぎの話を聞き漁師仲間を集めてヤツラを脅したという顛末(てんまつ)でした。二十人くらいで取り囲み、本土人が島で悪さをした日には生きて返さないぞと脅したのヨ、と集まった中の一人が教えてくれたのです。
ところが、間もなく先生の姿も消えたのでした。自分の生まれ育った土地に戻って教職に就かれたのだろうと私は思いました。それにしても郷土研究部員の唯一の私に、なにより初めて体を許した女に連絡もせずに、です。
それでも。間もなく卒業と同時に私も島を離れて就職し、そこで知り合った男にプロポーズされて結婚する頃には先生の事も忘れていきました。でも不可解な事がありました。夫になる男との初めての夜、私は痛い思いをしたのです。
そしてもう一つ驚く事に出遭ったのです。それは一人娘が高校生の時のこと、娘が心理不安になり治療をする事になったのです。担当されたのは催眠療法を専門とする医師の方でした。母娘ともにカウンセリングを受ける過程で興味を持った私は自ら催眠を体験してみる事にしたのです。
身体の力を抜きますという導入から始まって。催眠に誘導されようとした時に気付いた事、それを私は担当医に言いました、過去に似たような事を言われたと。恥ずかしい所は勿論伏せてですが。奥様は催眠体験があるのかも知れませんね、見てみますかと医師に促されて発見した真実。私は先生に抱かれてはいなかったのです。キスは事実でした。しかしそれ以上の事は、催眠で「体験した」と信じ込まされていたのです。覚醒後も支配力を持つ事の出来る催眠を後催眠と言うのだそうですが、先生は私にそれを施していたのでした。その事実に私は驚くほかはありませんでした。
娘も私に似て早婚でした。ところが娘が家を出て間もなく私は夫から別れ話を切り出されたのです。何年も付き合っている女がいて、子供もいる。その子が修学する前に籍を入れたいという身勝手な突然の話でした。私への責任は置いて子供に責任を取りたいというばかりです。頭を下げ続ける夫に私が折れると、誠意を見せたつもりでしょう、夫は私にまとまった金を渡してくれたのです。五ヶ月前の事でした。
独りになった私が最初にしたのは先生を捜す事だったのです。お金を使って依頼して解った事が二つ。先生に結婚歴はありませんでした。そしてもう一つ、先生は幼くして養子になり、十年ほど前に元の姓に戻っていたのでした。
私は先生の元へ訪ねていきました、二十五年ぶりに。花束を持って。ここガン専門病院のホスピス棟へ。
会うなり、「先生、私よ解る?」と訊いたら「おお解るとも。ミサ姉ちゃんだ」と先生は戯けながらはっきりと答えたのです。目は窪み、頬は痩(こ)け、相撲大会に飛び入りした頃のヤマヤの面影はどこにもありません。私はその日のうちに近くの長期滞在用のホテルに宿泊を決めたのでした。
再会した最初の頃、先生は元気でした。「初めて会った海でミサちゃんは熱い砂の上で素足だった。どうしてと僕が聴いたらキミは答えたんだ、海や渚は島人(シマンチュ)にとって聖地だから汚したらいけないんです、ってネ」と私の憶えていない事まで夢中になって思い出を語るのです。看護師さんに「お喋り過ぎは身体に障りますよ」と注意されると「私は今幸福なのだ 舌が廻るといふことが。小熊秀雄」と詩の一節で返す始末でした。
私は訊きたい事がいっぱいありました。私を抱いてくれなかったのはなぜ? 一目惚れは嘘だったの? あの奥さんは何だったの? どうして学校を突然辞めたの? など山程の事を何日もかかって聴きました。
「前の学校の教え子が押しかけてきたんだ」「結婚しなかったの?」「そこまで気持ちが高まらないうちに向こうが出ていったのさ。辞めたのは依願退職さ、女性関係に問題があると管理職に言われた」と重い口を開いたのでした。私の朝帰りも辞職と関係があったかも知れません、が、その事は一言も言いません。「催眠にかけたんでしょ? 私を」「よく判ったね、教育催眠はボクの専門で得意だったんだ。瞞(だま)したつもりじゃないよ」「キミはボクには特別な人だったんだ」。「学校辞めてから塾の講師になった。養父母が他界したのは十年たった頃だ。天涯孤独になって考えたよ、何の為に生きるのかってね。出した答が好きな山で暮らす事だった。小さな山小屋の番人にしてくれる話があって山に移った。仙人になった訳じゃないさ、毎日が下界との往復で、飲み物などを上げるボッカ稼業だったが辛くはなかったよ。それが突然苦しくなった。体力が衰えたのを実感して診て貰ったら、肝癌だったっていう訳。手術は拒否したよ、山で最後を迎えようと思ったのさ。だがムリだった。それでここが終着駅だったという訳さ」と。
そんな事は話してくれるのですが私の一番聞きたい事、私をどう思っていたのか、については語ってくれないのです。そこで私が考えたのは毎日一編の詩を持って行き教えて貰う方法でした。詩人の思いを聞く事で先生の気持を探ろうとしたのです。
「わたしは一生かかってかくれんぼの鬼です お嫁ももらいません(略)もういいかい?と呼びかけながら しずかに老いてゆくでしょう」「さよならだけが人生ならば めぐりあう日は何だろう」の寺山修司とか、中桐雅夫の「私が死んだ時には思い出しておくれ、恥辱と悔恨の三十年に耐えてきたのはただお前のためだったことを」や、山之口貘の「だから女よ こっそりこっちへ廻っておいで ぼくの女房になってはくれまいか」か、など捜しては持って行き、枕元で読みそして訊ねました。
そしたら、この人はついに言いました。「一目惚れは本当の気持だったよ、でもミサちゃんが生徒になった日から立場上、好きだとかは絶対に言えない言葉になったんだ」と。そしてとうとう私が一番聞きたかった言葉、それを言ってくれたのです、お嫁さんにしてくれると。でも出来ないのです、私の民法上の立場から後一月は。
延命治療はいらないというこの人の意志を唯一の家族として同意してあげたいのです。ですが、この人は後一月を待ってくれるでしょうか。
「思へば遠くへ来たもんだ」と呟くこの人に「近くなったのよ、二人の距離は」と励ますたびに残りの時間が少なくなっていくのを感じます。この人が大好きな夏、今年の入道雲(タカタロー)を見る事ができるのでしょうか。
洗濯物を持ち帰り洗うのが私のできるただ一つの妻らしい仕事です。
帰りには本屋さんに寄り、彼の喜びそうな詩を選びます。
そして、高校の時に二人で話した「三百五十万年後に一緒に山に登る」事、それも決して頑是ない約束とは思っていない私なのです。 1 終り