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闘いは今から闘いはここから

 


☆一九九七年六月六日〔ガン発病〕

 

 勤務する高校は三限目の休みだった。電話が来た。泣きながらの妻からだった。「胸のシコリはガンだった」と。

 昼に迎えに来いと伝える。その日の私に車は無かった。一時間後に迎えに来た妻の目は腫れていた、独り泣き明かしたのだろう。休みを取った私は助手席に乗り込み、努めて明るく声をかけた。
「本当にガンだとしたら、医者が簡単に告知するか?」「なら、あんたが直接に聞いて!」と妻は言い、途中、病院に停めた。私は一人病院に入り、担当の副院長に面会を請うも不在、帰院は不明とのこと手で聞けぬまま帰宅した。

 二人、家で遅い昼食をとったが何を食べたか全く記憶から欠如している。私の頭の中でガンという言葉が蜂の巣をつついたように飛び交っていた。
 半年前のことだった。地元の病院での乳がん検診のさい、左胸に僅かのしこりを感じると妻は問診で答えたものの発見されず、半年後に再診して観ましょうとの事だった。
 半年たった五月、大きなしこりが確認できて細胞検査。刺したところが外れたのだろう、一回目はガン見つからず。ひと月後の二回目の今日になって、癌細胞が発見されたのだった。それも大きな塊となって。
「すぐに切除の手術を行います」と言われたとのこと。もっと早く発見してくれていたらと、地元病院への不信が沸き起こった。しこり感があると訴えていたにも拘わらず、(後で判った事だが、大きさ五センチ、第三ステージという所まで達していた)発見できないていどの技量の病院に命を委ねる事はできないとの不信、それがA病院へと思いを向かわせた。A病院は県内で最初にホスピスを最近始めた所として、新聞テレビで紹介され始めていた。

「一番いいびょう病院で治療を受けよう。それしかない。それが一番自分に納得がいく」と決心を固めつつ二人で話し合っているところに私の妹がやってきた。妹は車で三十分くらいにある郷里で結婚して近くに住んでおり、栄養士として医師会立の病院に勤務していた。妻から電話で聞くなり休みをとって駆けつけてくれたのだった。妹は開口一番に言った「どうする?」私が答えた「A病院におねがいしようと思っている」「それが良い。私も道々、専門病院のAを薦めようと思ってきた。こちらの病院には私が怒られに行く」と妹は即座に言うなり、妻を伴って出かけて行った。凡そ一時間後に帰って来た妹の話はこうだ。
「私も病院に勤めているから対応を考えた。こちらから紹介状とカルテを貰いたいが、こちらは転院は嫌がる事だろうから姉さんは車に残して一人で言った訳。副院長は解ってくれてね、書類を貰って玄関を出ようとしていたら、院長が玄関先に追いかけてきてね」「車の中からおじいさんが追いかけてきたのが見えたわ。話は聞こえなかったけど、腕をワナワナと震わせて怒っている様子だった」と妻。

 妹が続けた「院長に言われた『ウチで見つけた病気だろ。患者に遺医者を選ぶ権利があっていいものか。あんたも病院勤めと聞いたが、そんな勝手が許されると思うのか』って何度も繰り返す訳。こっちも済みませんと繰り返すしかなかった。患者にとっては最上の治療をして貰う事が最大の希望よね。任せなさいの一言で訳もわからずに切られてはたまらない。そう言いたかったけど、マ、院長の怒りを聞き流した訳よ」と言い終えた後、妹はすぐにA病院に予約を入れ、明日九時の診察が決まった後に言った「兄さんは急には休みが取れないでしょ。明日は土曜で私は休みがとれるから付き添いで一緒に行ってくるわ」と。実際、担任を引き受けていると急には休めず、感謝した。
 妹が帰った後、今後の事を考える。治療費を初め、車と船で二時間の病院でどのくらいの入院になるのか、その間,一人で子供の面倒をみれるのかなど。 
 妻と私は結婚十四年目を迎えていた。私四十六歳、妻三十六歳。教師と教え子の関係である。

 妻が高三の時に教えた。地元の銀行に就職した妻はボーナス時に母校を訪ねてきては預金の勧誘をやっていた。年に二回顔を会わす程度だったのだが、私が転勤をする前に飲みに誘ったら軽い気持ちでやってきた。転勤目前になってあわてて付き合い始め、結婚を決めた時、妻は二十三歳だった。慌てたのにはわけがある。もしも離島に転勤になって付き合うとなると時間も金も要る。私に金が無いことは、銀行員として預金管理をしてくれていた彼女はその事を充分に知っている。遠距離になると会えない、金も無くあせっていた私に同情してくれたのだろう、短い付き合いで結婚を決めて、結婚一月後に転勤先の奄美大島隣の喜界島についてきたのだった。が、教師というものは教える職ゆえ、傲岸、不遜、独善みたいな面も持つ。その体質、十歳離れからの違和感、加えて私の大酒に妻は家を出たいと思った事が数回はあったという。しかし、二人とも誰一人として知人のいない離島、まして家を出たとしても船も飛行機も翌日を待たずば、出ない、怒りは時間と共に諦めとなって暮らすうちに三人の子が生まれ、育っていた。

 夕食時、A病院での闘ガン体験をされたK氏夫人に電話を入れて話を聞く。
「驚きました。経験からもA病院を勧めますよ。体験者で激励会を作って退院後も励ましあっているの。私はその会の世話役もしているのよ。院長にもあなたの事を頼んでおきますからね」と勢い込んだ親切な話に感謝する。

 妻の祖母を引き取っての同居が二年になっていた。長期入院となると面倒をみられない。明日より、妻の父母に祖母の世話をお願いすることに決める。
 夕食時、祖母が食事に不満を漏らしたのに妻が返した「ばあちゃん、全部食べてね。これが私の作る最後の食事になるかも知れないから」。祖母が聞いた「どうしてよ」「明日、私は手術に行くの。ずっと入院でいつ帰ってこられるか解らないの」。祖母は怒った「明日手術という大事な話を何故今まで隠しておったのか?」「急に判ったのよ」「急に手術なんて話があるか、私をだまして」と怒る。
 病名を隠して妻は言う「本当にそうなったのよ」「そんなウソをつくんじゃない」
「本当なんだから」。痴呆からくるガンコさは妻の説明を解ろうともせず「ウソをつくんじゃない。あんたがどうかなったらーー」「私がどうかなったら? 」
「コノヒトにすまないだろ!」と祖母が私を指差した。途端、妻の両目から涙が零れ落ちた。涙の意味するものをおそらく祖母は気づくことはないままだったろう。
 子供の反応はと言うと、中一の長男哲人は、妻から直に聞いてもらした一言「最悪だねぇ」。小六の次男、真吾は妻の涙に何かを感じたらしく無口になった。小四の娘、愛は私と風呂に入りながら「手術が失敗したらどうなるの?」としきりに聞いたのだった。

☆翌十日。(今後の事
 朝六時、妻の父母が祖母を迎えにくる。
 七時、病院に付き添ってくれる妹が妻を迎えにくる。私は昼で帰宅。三時前妻帰宅。四日後に入院との事。とりあえず、家の段取りができると二人でほっとする。しかし、内心の不安は消えるべくもない。病院に持っていたレントゲン写真には大きな白い塊が五センチほどに写っていた。脇の下のリンパ節にもぐりぐりしたシコリを感じると妻はいい、加えて腰も痛いと訴えるからだった。(既に転移しているのか?)との、不安を打ち消そうとするも打ち消すべくも無く、晩酌が半分ほども行かず、ビール缶一に焼酎二杯で酔いもせず。
 テレビを無心に見ている子供を横目に、妻と話し合う。定期預金を解約してできるものは全て普通預金から引き落としに明後日手続することにする。何が引き落としができるのかの説明と、塾や学級費などのできないものを妻が説明するのだけど覚えきれず、二人ともイライラして口論気味。十一時、妻の部屋で就寝。今までは別室だった。夜中三時に妻に起こされる、凄いイビキだったと。大丈夫? あんたまでどうにかなったらーーと心配げな顔。目が覚める。「何か聞くことない?」との妻に「無い」と応える。「イザ」という事を考えたら話したいこと尽きぬほどある。それを話さないで済むことを今は祈るしかない。

 昼に妹がコッソリ教えてくれた事を思い出す。今日の病院でのこと。看護婦さんから「家で何か残してこられた事はないですか?」と問われた妻は「遺書の事ですか?」と真顔で答えたものだから、看護婦さんは「いいえ、そんな事じゃなく」と慌ててねぇ、と、こちらも真顔で妹が私に告げたのだった。

☆翌八日(日)〔ガン知識をあさる〕
 開館を待ちかねて図書館にかけつける。ガンの勉強は旧い図書を読むな、と言われている。医療技術は日進月歩している、旧い知識では絶望するからと。また先年話題になった「患者よガンと戦うな」の類の医療の可能性を否定的に捉えそうになる類もある。ゆえに、私が先に読んだ本は、結果二十冊ほど。本日は二冊。「乳がんからの生還」「ガンを克服した五十人」。末期がんからの生還体験に勇気づけられる。後者の本にあった民間薬品を明日にも求めようと決心。十二万という薬品代をヘソクリをかき集めてねん出しよう。

☆翌九日〔ヘソクリ、そして将来の夢〕
 勤務に出かける前に、昨日の本を妻に渡し、読んでおくようにと言い渡す。
 職場から、隣県所在の製薬会社に電話を入れると、お買い求めは直接出向いて貰いたいとの事。自宅から一時間の距離。昼から年休取って行くことに決める。職場に隠しておいたヘソクリを確かめると、何と薬代ピッタシの十二万也。  
昼、戻って妻を誘う。運転しながら、妻に本読んだかときくと読んでいないと答えるので、すぐに運転を替わって言った。
「疲れているのは解っている。それでも製薬会社に一緒に行こうと言ったのは、きっと薬剤効果について説明があるだろうからお前に聞かせようと思ったからだ。今からこの本を読むから、運転しながら聞いておけ」
 車中、一時間、私は朗読を続けた。薬の効果を信じないなら、どんなに高価で効果のある薬だって薬効半減と思えたからだ。かつて妻が教え子だった頃のように私は大声で読んでは、わかったか?と繰り返していた。薬を手にして帰る途中、「よくそんなお金を持っていたわね」と妻の問いに、答える代りに私は運転しながらカラになった財布を振って見せたのだった。
 夜、眠りながら考えた。立場を替われるものなら替わりたいと。自分は人生の半分以上をやりたいようにやって十分楽しんできた。その一番の恩人が妻であることに間違いはない。報えるものなら命を替わってやりたい。それに、今後の子どもの人生を考える時に厳しい父より優しい母親が残った方が子供達は幸せだろうと考えるから。
 さらに考える。十三年後、定年退職してからの私の夢は妻と一緒に居酒屋を開くことだった。料理なら素人の域は超すくらいには達したと自負している。友人のもてなしに一日がかりで懐石風料理を造ることもある。釣り用の小舟も持ったし、庭にはハーブヤ香木も植え、居酒屋の名前も「はしてい」ととっくに決め、年賀状には毎年、「はしてい 開店迄あと〇年」と書いて数年になっていた。妻の無い人生で居酒屋なんて考えも及ばない。毎晩客と一緒に酔うオヤジを誰が介抱するのだ。妻なければ潰えてしまう夢になんで生きられよう。

☆翌十日〔入院前日〕
前日といいのにケンカである、妻と。
うちでは安全食品を心がけ、生協から食品のだいぶを購入していたが、妻の不在時に定期購入するものを、牛乳、納豆、豆腐、パンなど数点に絞った歯いいものの、共同購入しているそれら物品を口頭で私に伝えようとしたものだから私が怒る。ゴミの分別と収集日も同様、私は紙に書いて貼り出せと言ったのだ。子供の学級費、塾、ピアノ代。日によって異なる毎日の塾の送迎時間。PTAと町内会の連絡網順。PTA役員は代わって貰えることになりホッ。洗濯機、掃除機、乾燥機の使い方、フィルター交換法。それら生活必需法を口だけで理解しようもないではないか。憶えねばならないのが多すぎて混乱。

 イライラして私は言う「口で一回いっただけで解るか。書いとけ」「何を?」と妻はケロリに対し、「全部よ」と私。既にふたりともプッツンしかかっていた。料理自慢の私は冷蔵庫の中身なら全て解る。中にあるもの、賞味期限、そして値段が幾らの時に買ったものとか、妻よりおそらく詳しい。それ以外はまったく無知。
 収納物、金銭的なもの全て、借金に保険、子どもの環境など。後になって右往左往させられる始末になり、全く反省をさせられたのだが、原因は全て私にある。結婚した時、私が新妻に「お前は社会常識の一切を知らない。万一、俺に何かあった時に困るのは必定。よって今後すべてをお前に任す、勉強のつもりでやれ!」と宣言,まかせたのだった。爾来十四年、私は生活能力を失っていったのである。妻の社会的能力は反比例するように拡大し、かかってくる電話にしても妻と私は四対一の比率となってしまった。妻不在となってから私は日に二十件は来る電話の恐怖症となり、ルス電話に変えてしまったほどだ。電話を、たとえとっても妻あての内容が理解不能だったからである。
 で、今日は家じゅうに家事のノウハウを書いた紙を貼り付けたのだった。印鑑や預金証書の隠し場所に、口座の暗証番号に至るまで。
 疲れて早く休む。が、夜中二時に目覚めると妻が起きていた。話を初め、妻が語った。
〇発見が遅れガンが進行していたことは恨めしいが、良かったと思う事にする。
 昨年十一月の検診の頃、長男は私立中を受験するか否かの選択時期に会って、ストレスからかよく問題行動を引き起こしていた。家庭でも反抗的だった。この時期にガンが発見され入院となっていたら、長男に救いの場がなかったことだろうと。長男の大事な時期におれて良かったのだ、と思う
〇それは、ガンが今発見された事になんらかの意味があるのだと言う事。その意味を考えてみたい
〇今後、どんな状況が待ち受けていても、希望を失わないようにする。たとえ,一パーセントの生存可能性になろうとも。それは子供に不安を与えないことでもある。
〇今後、残された人生に前向きに意義を見つけてやっていきたい。やれることをやる事に価値を見つけて行きたい。体がやんでも心は最後まで病まないようにしたい。
〇それは自分の命を永らえる事に腐心するのでなく、人の為に何かしてあげられることを心掛けたいということ。
などだった。内容には私が殆ど同意できるものだった。私の考えが四十七年の体験から生まれたのだとすれば、妻は自分の信仰から辿りついたのだろうか、とするなら、妻の信仰を無下にはできぬと思う。
 明け方の眠りの中、夢を見る。旧い一軒家に一人いた。柱も黒ずんでいる旧家の中は、タンスに引き戸など全て作り置きになっており、整然としている。汲み取り便器にも和紙の古紙で蓋がある。ツルで編まれた塵かごにゴミを投げたら軽快に真ん中にストンと落ちて行った夢。
 朝。目覚めて得心した。夢の意味は、整理できた環境、心境でやっていく自信が私にできた、と思う事にする。

☆翌六月十一日〔入院日〕
 七時になっても子供達が起きて来ないので妻は不機嫌。今からこんな調子では、と案じている様子。生協パンの購入数を減らしたらどうか、という私と又もや口論。昨夜、あれほど人生観で一致したというのに、パンの個数で喧嘩する始末に情けなさを覚える。
 母と妹が病院へは付き添う。夕刻、中一の長男が七時半過ぎに遊びから帰宅したので怒る。手伝いなど分担させようと思っているのに、母の入院の自覚など無く、遊びほうけていることに腹が立つ。

☆翌十二日(入院二日目)
 六時に起き、朝ご飯を準備し、自分の弁当を作る。六時半、子どもを起こす。
朝食後、長男と次男が喧嘩。洗面の順番で譲らない。もう一つの方を使えば済むものを罵り合っている。怒って七時に子供を追い出す。不快な気分のまま勤務に。家庭の不快を今まで勤務に持ち込んだ事は無かったが、こんな日が今から頻発するのかと思うと気がめいる。

☆三日後十五日〔父の日〕
 休みで一日中家の掃除。夕食後,小四の娘が、プレゼント、と貯金箱をくれる。息子二人は顔を見合わせて知らん振り。昨年まではプレゼントをくれたのに今年は忘れたものらしい。妻の入院で息子たちの心も精一杯だったのだろうとおもう。

☆六月十六日〔兄弟喧嘩〕
 六時起床。一週間の始まりと言うのに気ダルク、憂鬱。月曜病か、息子たちがまた喧嘩。原因はこうだ。毎日の手伝いを分担させておいた。長男は茶碗洗い、次男は洗濯、長女が風呂とトイレ掃除など。長男の言い分によると、制服のシャツが乾いていない、弟が昨日のうちに干していなかったからだ、と。弟に言わせると、兄やんが早く洗濯かごに入れておかなかったからだ、と。それに兄やんの茶碗洗いだって雑で、水洗いしないで食器洗い機に入れているから、汚れがくっついているじゃないか、と。罵り突っつきあいをしているのを見て,どなって追い出す。
 夕刻、二人ともケロッとした様子で帰宅してきたのをみて一安心。
 入院の日より、願掛けで禁酒禁煙を始めたつもりだったが、禁酒は一日たりともできず。とてもシラフでは眠りにつけないからだ。

☆十七日〔たくましくなってくれ〕
 つくづく妻の家事労働に思いを馳せる。
子どもの手伝いが軌道に乗らないため喧嘩をさせるくらいなら、自分でやるほうになる。一日はこうだ。
 六時起床。朝食つくり、テーブル拭く。六時半、子ども達をおこして一緒に食事。七時、自分の弁当作り。その間に子供が学校の用件を言ってくる。金品や用具などは前日に準備しておけとくどいほど毎日言っているのに、当日になってぐずつく。準備できないものは学校で友達に借りる程のたくましさがあればいいものをと思うが、そこまで放任もできないので毎朝怒りながらもかまってしまう。
 それでも、爪が伸びていたりネーム札を忘れて先生に怒られたくらいは気にしなくなった。子供がズブトクなっていったのは良しと思う。友達の傘に入れて貰って帰ってくるのも。
 寂しかろうけれど、たくましくなってくれと思う、特に息子達には。いつの日にか、母ちゃんを守れるくらいに逞しく、と。

☆十八日(同情無しの心地良さ)
 韓国の翰林〔ハンリン〕大学の日本学図書館〔池明観館長〕が日韓友好の証として日本からの図書十万冊を求めている。そこに本を贈る会の発足。
 その後の飲み方で、妻の病気の話になった。家族付き合いをしてる仲なので遠慮がない。A病院に紹介してくれたH氏もおり、妻の乳がんに気づかなかったのは亭主の責任と言う論調になった。今までどのくらい嫁さんを愛してきたかと詰問され、自分の場合のペースと愛し方まで六十を超えた先輩方が言う。後で迎えに来られたH氏夫人に旦那の発言の確認をしたところ、嘘ばっかりと即座に否定されたのに皆で大笑い。なんでも喋り同情無しの心地良さ。久々の居心地の良さに快飲して帰宅。
 帰宅すると妹から怒りの電話が待っていた。
「嫁さんが病気と言うのに見舞いにも行かず、何を飲み歩いているのか」
「飲み歩いている訳じゃない、初めてじゃ。それにオレは社会の為に行動しているんじゃ」「そうだとしても、一週間もたつのに見舞いに行かない旦那がどこにいる?」「忙しいんじゃ。アイツにはそういってある」「忙しくても休みを取って、行かんば!」と。
 親切な妹ながら、命令口調でいわれた事に不愉快になって眠る

☆翌十九日〔初めて見舞いに〕
 朝。学校に電話を入れ、一日の年休。自習の措置は同僚に頼み、車で2時間の病院へ。3人部屋のだった妻と喫茶室へ。そこは退院者のボランティア運営だとか。他にも図書室運営とかイベントがボランティアで盛んにおこなわれて親睦や激励がなされているそうだ。「手術間近の人や済んだ人とか色んな人と知り合えて情報を教えて戴くと非常に力になる。同病者がたくさんいる、それだけでもここに入院して良かったと思う」と妻が言う「専門病院でないところに入院していたら共に励ましあう仲間もできず、他の闘病者から哀れみの目でみられていたかも知れない」とも。妻の話に納得して、診察の待合室に移った。
 看護婦さんから「ご主人ですか? 奥様のお顔のなんとにこやかな事! 最初の日はずっと緊張続きの顔をしていらっしゃったのよ」と語りかけられる。
 帰りの船中で妻の落ち着いていた顔を思い出しつつ、行って良かったと思った。そこで、ふと考えた。妻の闘病記を書こう、ありのままの真実、それを記録しておこうと。何のために? 母の生き方、そして夫婦を、今は理解できないところもあるだろう子供達にいつか理解して貰える時の為に。母さんはこんなに頑張ってきた、という事を教える為に。

☆翌二十日〔家事労働多忙なり〕
 やはり、日々の家事はきつい。朝六時起床は変わらず。朝刊を読む暇がない。社会の教師をしているのでニュースを朝に知れないのが残念。テレビを朝に見る暇もなし。
 夕方五時半帰宅。片づけしたり買い物。六時に塾に送り七時半迎え、又は七時半送って九時半迎えの繰り返しの一週間。新聞を読む暇が無いので、夕食の準備をしながら音声だけでテレビニュースを聞く日々。授業の教材研究の時間もろくに取れないのがキツイ。家事が十時までかかる。と、いう事は妻の家事は草取りなど外の仕事を入れずに六時間はあると言う事か、と思い知る。草取り、水巻、庭掃除に買い物など入れたら十分に八時間労働を超過する事を再認識する。

☆翌二十一日(疲れてきた)
 昼休みに学校で眠るようになる。
 今まで勤務中の昼に眠る事はついぞ無かった。眠っている者を見ると、怠惰を感じていたすらいた。ところが自分が昼食をとってからソファーでくつろぐや眠ってしまうようになった。熟睡、生徒の言葉でいうなら「爆睡」。「凄いイビキをかいていたが、体は大丈夫な?」と同室の教師が聞いてきた。
 夢を見ていた。病院からの電話に不吉な予感がして、受話器を取るのをためらっている、そこで目が覚めた。
 今までイビキをかくことが無かったので不安になる。もともと成人病検診ではすべての面でひっかかる体になっている。今晩より娘と一緒に休むこととし、言い含めた「お父さんがおおきなイビキをかいていた時はすぐに起こして! 揺り動かしても起きない時は夜中でもいいから、おばちゃんかばあちゃんの家にすぐ電話するか、百十九番に電話しなさい」と。娘は真剣に聞いていた。が、息子どもに真剣味はなし。

 

☆翌二十二日〔日〕(仮退院日)
 十一日ぶりの退院日。子供達と迎えに行く。駐車場に、車に轢かれたらしい白猫の死骸を見る、妻には言わず。院内の、四五階が一般の立ち入り禁止になっているのをみた長男が訊く、どうして。ホスピス病室でターミナルケアをやっているところだよ、末期の患者さんのいるところ、と説明する。説明不足だったのか、長男が一言「あそこに入ったらおしまいなんだね」と。思わず大声で言った「おしまいだと? そんなこと決まっているものか! どんな時でも絶対と言うことはない。医者の治療で限界となっても、何らかの力で生き返った人は何人もいるんだ」と。この会話は妻も他の子もいないところでする。
 二週間の在宅で、抗がん剤でガンを小さくしてから切除すると言われたとのこと。なぜ早期切除でないのかわからない。本を何冊も読み知識を得たつもりだが、医師にどの程度聞いてよいものやら。聞きすぎて医師を不快にさせないかと思うと、やはり患者の立場は弱い者だと思う。患者が医師と同等の権利わ持つために、現在の状況〔症状、治療薬など〕を正確に知り、今後の治療にどんな選択肢があるのかを医師と対等の立場で決定するところまでには至っていない、と思う。医師と同レベルの情報を患者が持てないものか? 医師の決定に形式同意のみに留まっているのではないか、など思う。

☆〔ガン患者の自殺〕
 炊事をしているところに妻が来て、何か言いたげな様子。何だ、と問うと先日、病院で飛び降り自殺があったという話。ホスピス病室から、あの白猫の駐車場に飛び降りて亡くなったらしい。思わず、本当かと言葉が出た。大声に長男が来て聞き耳をたてるので、向うに行けと言うも、何の話? としつこい。最近、死とかの話に興味を持ちたがり、神戸の殺害事件にも関心をもつので少々不安。子供には関係のない話しだ、と強い剣幕で怒ると半べそかいて自室に。
 ガン患者の自殺とは、理解を超えるものだった。関係する本の中で、告知して自殺する者はいない、いつか来る死を真実受け止めて、余生を真剣に生きようと、自分の意志で努力するところに告知の意義がある、と読み、同感していた。自殺と聞いても死に急いだ理由が解らず、妻に、解るか? と問うと、「眠れない日があるの。病院ではずっと安定剤を出して貰っていたの」と言う。私も同様に不眠になっていた。睡眠薬代わりの晩酌量は増えていたのだが、真夜中零時頃に決まって目覚め眠れなくなる。そこで仕方なく眠る為に本を読むのだが今度は四時頃まで眠れずに、生あくびの絶えない日々となっていたのである。「ああ、きつい」が口癖になっており、それは後日、ヘルペス発症となって現れたのだ。

☆〔先に逝く者、残される者〕
 眠れない。妻が眠る前に言った言葉を反芻している。「私が逝ったら、この家どうする?」それから加えた「生命保険で借金返済はできると思うのよ。子育てをここでする? それとも家を売って実家に戻って育てる?」。私は返した「そんな事考えた事もない、解らん」と。しかし、最悪の間際には、墓の事、子育て、遺言など、語り尽くしておくべきなのだろうか。その時、とはいつか?
そして語るべきこととは? 等考えていたら眠れなくなった。
 辛く苦しいのは先に逝く者か、それとも残される者か?
 後者だと答えたら、先に逝く者が悲しむことになるのか。

☆〔妹、そして同情ということ)
 妹夫婦が家族五人、晩飯持参で泊まりに。父母が託したという金、ガンにきくというスギナを持ってきた。こちらに息抜きの配慮だろう、子ども達の燥ぐ顔も生き生きとしている。妹は、その後も日曜にやってきて洗濯、買い物に掃除とやってくれた。改まって感謝こそいわないものの感謝の気持ちはいっぱいだった。子供達には「今度の件でおじさんおばさんには随分お世話になった。お前たちが大きくなった時に感謝の気持ちを忘れるな」と教えきかすのだった。
 一方「同情」というものの空虚さもつくづく実感した。妻のびょうきはなるべく隠しておこうと思うのだが、隠せずに乳がんです、というと大抵の人が顔を強張らせるのだ。余計な事をきいてしまった、何とはげまそうかとの動揺がもろにでてしまうものだから、こちらが困るのだ。「大変ですね、頑張ってください」とか「私にできる事があったら言ってください」とか最初から言える人は少ないし、聞いた後で、私から逃げるように立ち去る人すらでてくる始末だった。他人から「可哀そうな人」となんて思ってもらいたくない。運命を受け入れる決意をし、その中で人生を切り開いていこう、とする者は、他人から可哀そうなどの同情は無用なのである。いわゆる「傷害」者も同じだと思う。傷害が「」つきになっているのはお解りだろう。傷害と思っていない人間に可哀相は無用の極まり、と思う。

 ☆〔妻と夕陽〕
 帰宅すると、妻が勝手口の裏で一人、夕陽を見ていた。目に涙があった。「夕陽に感動でもしたのかい」と茶化して場を離れた。心に揺らぐものがあったのだろうと思う。
 夜、学級通信に書いた。通信の名は「星空」。生徒全員の個性が満天の星空のように輝くようにとの願い、またカントの言葉「畏敬に値するもの、それは頭上の星空と、内なる道徳律である」から名付けて担任時にはいつも、この名でやっている
〔思う事〕――「星空」記載
 六月六日、嫁さんが医師から告知されました。乳がんが進行しているというものでした。
私は関係する本を読み漁りました、二十冊ほど。
 そして得た結論は、最大の努力をして戦うと言う事でした。だから、嫁さんに泣くなと言いました。私は泣きません一度も。以来、嫁さんは私の前では涙をみせません(隠れて泣いているようですが)。体の中の癌細胞を壊す免疫は生きる気力が弱まる事によって弱まる。つまり 生き抜く細大の力は薬でなく、自己の免疫力だと言われているからです。泣いてても何にもならない、泣いてたら負け、というわけです。私は最大の努力をしようと思いました。鹿児島の専門病院にお世話になることに決めました。そこの専門家の先生は一番勉強しているだろうと、先生の勉強を信頼することにしたわけです。抗がん剤で癌を縮小してからの手術という方法のため、二か月たった今も入退院の繰り返しで手術待ちの状態です。抗がん剤で頭髪がひどく抜けたためかつらを準備しました。薬で白血球が減少している為、現在は病気になってはいけません。体がすっかり弱ったために家事を分担することにしました。子供は中一男、小六男、小四女の三人です。洗濯、食器洗い、洗面所掃除などを子供に分担させたのだけど、「食器が汚い」「服が汚れたままだ」のケンカ。私は怒り、説教。嫁さんかいない時はすこしはケンカは減ったみたいだけど、退院してる時はまた母親に甘えが出て文句を言う。母に文句をいう事が免疫を弱め、命を縮めるという事が何度言ってもわからないみたいで、死んでから解るのかと腹が立つ。
 家族の助け合いというのは「今」なんです、自分ができる時。
 医学を信じて一日一日を大切にいきたい、これが今の嫁さんの心境みたいです。要を得ない文になったかも知れませんがまとめると☆気持ちでまけないこと☆家族に感謝し助け合うこと☆一日一日を大切にいきること
などを皆さんに伝えたかったのですが、何か感じるものがあれば、幸いです。

☆〔体力自慢の妻だったのに〕
 風呂からあがった妻の髪の抜け毛に驚く。頭のてっぺんは完全なハゲ。子供達もホーというのみで言葉がない。大丈夫、手術が終ったらまた元のように生えてくるんだから、と安心させる。
 もともと体力自慢の妻だった。結婚前に「私、トラクターに乗れるよ」と言った事があった。畑仕事が好きで、近所の土地を借りて畑作をやり始め、若いのにと評判だった。運動会の親子リレーでは妻の力走で決まって一番だった。そんな彼女が体力を奪われ、免疫力の低下から土いじりもできなくなるとは。
 知られている「乳がんの高危険者群」の八項目のいずれにも該当する項目はないのだ。そして、子どもの誕生いらい、食品の安全性にも過敏なくらい気をつけてきた。なのに、なぜ発ガンしたのか。ストレスによるものなのか、ならばその責任は私にあると思う。

☆〔家計のこと〕
 妻を休ませる為に、買い物、炊事をやっている。今日はその事で妻とケンカ。食の安全性には理解しているつもりだが、妻の病気は子供にストレスになっていると思うのだ、甘えられない、依頼できないなど。たまには好きなものをたらふく食べさせようと思っていた矢先、安売りを見つけた。ハンバーグやピザなどの冷凍食品をしこたま買って帰った処を妻に怒られた。なんでそんなものを食べさすのよと。たまにはいいじゃないかと私は自分専用の冷蔵庫にしまった。子供のストレス解消よ、という言葉は飲み込んだ。一方で、財布を預かって家計の苦しさが身に染みてきた頃でもあった。

☆〔釣りする子供の傍らで採点〕
 休みの午後、家庭訪問する予定の生徒が、都合で延期となる。その電話を聞いていた長男が、暇だったら釣りに連れて行けとせがんだ。忙しいと言ったら今月中に一度連れていく約束だったとヒネる。息子は一月ほど前に私の釣竿を無断借用して壊し、小遣いで修理すると言ったままほったらかししていた為、私は釣りに行けないでいた。結局連れていく事にする。釣り場で息子はキス釣りに興じ、竿の無い私は傍らでテストの採点、勝手な奴と腹をたてつつ。
 夕刻、友人のR氏が立ち寄ったので、庭でビールを勧める。長男がキスの刺身をこしらえて持ってきたのには見直した。いっきにビールがうまくなるのは単純か。

☆〔怒り爆発す〕
 見直しした僅か後の日、長男の担任から電話「子供さんの事で報告しておきます。昨夕、講演で花火を三人でした際、入り口のロープを花火で焼こうとしていたと通報がありました。ご指導下さい」と。
 ところが。本人はおらず帰って来たのは八時前だった。おまけに自転車が壊れている。どうしたと聞くと、クワガタ取りにいって山で転んだと言う。説教しているうちに怒りが沸騰した
「何を考えているんだ。ウチが今大変なときだと言う事が解らないのか。
 おかあさんが必死にガンと闘っている今こそ、家族みんなで力をあわせなければならない時だろうが。手術の後も、転移するかもしれない癌細胞と必死に闘わねばならないんだぞ。免疫力はストレスによって弱まるんだぞ。弱まると言うのはそれだけ死が近づくという事なんだぞ、解っているのか。お前たちがストレスを作っているじゃないか。物を壊すのだってそう、ウチにはお金はないんだぞ。おかあさんの為になんで節約しようと思わないんだ。お母さんが死んだときには自分達の責任だと思え、いいな、覚悟しとけよ」
 隣の部屋の扉を開けて、次男にも教えきかすように交互に言った。終わった後で次男がポツリと一言言った「お父さん、覚悟はできてるの?」
 聞きたいのかっ、とこれ以上ない怖い顔を作って私は引き上げたのだった。

☆〔ヘルペス発症〕
 疲れがひどい。腕から胸にかけて痛みが走る。胸、腕、背中にかけて水疱瘡みたいなものができた。神経まで痛むようになって四日目に総合病院に行った。ヘルペス〔帯状疱疹〕と診断されて医者が言った「今、ニュースでわだいになってるでしょ、皇后さんが治療中のあれですよ。疲れやストレスからきているんです。先ずは安静にすること。痛み止め、飲み薬と塗り薬を出しておきます。無くなったらまた来なさい」と言われたが、家の掃除や洗濯など山のように溜まっている。安静などとれるべくもない。
 痛みの激しい個所は左胸の筋肉である。妻も左胸を切除した際には同じ個所が痛むのだろうと思うと、痛みよりも切なさの方が増す。

☆〔痛み増しても休めず〕
 病院に行く暇が無かったので薬が切れたままほっといたら、腰から足にかけても痛むようになった。「ヘルペスは昔は、全身を帯が回ると死ぬ病気だと言われていたぞ」と同僚に脅されて病院に行くと、何故早く来なかったかと怒られる。「今治療しないと神経痛が後に残って大変になるんだよ」と言われて、暇が無いとは言えなかった。生徒の中に不登校の生徒がいて常に動向を知っておくために、担任としても休めない状態にもあった。
 帰宅してのすぐの掃除と炊事がきつい。立ったり座ったりするときにアイタタと口にしていたのが口癖になっている。

☆〔次男の指しゃぶり〕
 朝から長男が釣りの話をしてきたので「俺は忙しい。新聞を読む暇も無いんじゃ。釣りの話など朝からできるか」と突き放したところ、行ってきますも言わずに登校していった。それが夕刻、頼んでもいないのに床拭きをやっているのでグッとくる。
 夕飯前、小六の次男がテレビを見ながら指しゃぶりをしているのに気付いて愕然とした。今まで無かったことだ。寂しいのか。夜、次男の夢を見る。
 赤錆が雨季、ガスが涌いているヘドロの海で次男が独りで泳いでいる。周りには死魚が浮いている。衆人が見る中を「今すぐ上がってこい」と叫ぶ者の、ヤツは「何?何?」と意味の解らぬ様子で上がろうとしない、私は焦る。
 目覚めて、疲労感強し。

☆〔ガンかもしれません〕
 夏休みが待ち遠しくてたまらない。病院にヘルペスの薬を貰いに行く。
担当医師が異なっていたので「朝からとてもキツイんです。何か原因が考えられますか」と聞くと、同じ年くらいの意志が何か言った。聞こえずもう一度聞くと「ガンかも知れませんね」とよりによって応えるではないか。思わずムッとした顔の私に続けた「まぁしかし、オタクの場合は太っているしガンは考えられないでしょうが、カルテから見ると糖尿病の治療は必要でしょう。ほっておいたら合併症を起こすと大変なことになりますからね。治療を優先することです」と言われた。治療の時間がないんだよ、夜、眠れないから酒も飲んでしまうんだよ、と口に出せずに、お説に頭を垂れるしかなかった。

☆七月十九日〔一学期終業式〕
 やっとやってきた終業式の日だった。
 眠れない日が続いていた。寝過ごしが心配で目覚ましも三個をしかけ、妻にも毎朝病院から目覚ましコールを入れて貰う毎日だった。明日から気分的にゆったりできる。畑のとうもろこしの半分近くまで草が伸びているのを夕方取り掛かり、まだ夏の日は沈んでいなかったが、自分にご苦労さんとビールをあけた。塾も休みで気分もゆっくりである。
 妻から電話
「良かったわね。一学期も終わって。気分的にも休めるわね」に、うん、と短く応えると「奥さんが私と同じ闘病で、子育ての疲れから入院されたご主人が何人もいらした、と聞いて心配してたのよ」と。
 妹からも電話「夏休み、おめでとう」と。
「何言ってんだ、こっちは三年担任だ、進路指導や三者面談だ。他にも研修や家庭訪問だってあるんだぞ」と応えながらも、ホーッと出る安堵感は隠せない。

☆七月二十二日〔独り寝の妻の心は〕
 手術予定日が一月後の八月二十日と決まる。家族で焼き肉食べ放題の店に行く。大喜びの子ども達は母に食べろと勧めるのだが妻の食は進まない。
 抗癌剤が効いて免疫力が落ちているので風邪をひいてはいけない、というわけで妻一人だけがクーラーのない部屋で休むこととなる。一人寝の妻の心は暑いものではないだろう。

☆〔生きた証〕
 妻は留守番。子供を乗せて運転中に元ハンセン病施設の近くを通ったので教えてやろうと話し始める。
「ここの施設にいる人たちは何十年もここに住まされてきたんだよ。人に移る治らない病気と考えた間違った法律で強制的にここに連れてこられておしこめられたんだ。ずっと前に薬も見つかり治って、また映らないという事も解ってたのにまちがった法律が去年廃止されるまで続けられていたんだ。病気だと分かった途端に家族はその人を行方不明者にして隠した、近所とのつきあいをできなくなることを恐れたんだ。家族は死ぬまで病人の事を隠そうとし、病人も隠す為に名前も変えさせられた。名前を変え、自分のそんざいが知られないままで死ぬ人も痛んだ。仕事もない、同じ病気の人と結婚しても子供を産むことは禁止されていたんだよ。どんなに辛くさびしい人生だったか、と思う。全て間違った法律のせいなんだ」と語る。裁判闘争や自分も会員の「共に歩む会」の話は難しいと思って語らず。
「仕事しなくてよかったんならイイナ」と長男。
「バカ、仕事がなければ張り合いがないじゃないか」「でも、お父さんは学校から帰る度に疲れた、と言ってるよ」「そりゃ、疲れてるけどやりがいは感じてるぞ」「そうか。いつも疲れたと言ってるから面白くないのか、と思ってた」との言葉に、疲れたといっちゃいかんなと反省。長男はなりたい仕事がまだ決まっていない。
「仕事したら、何がいいの」「そりや、仕事しないと金がない、家族ももてないだろ」と答える。「それに、仕事したら俺はこれをやったんだ、と後に残せるだろ?」「先生は何か残る?」「教えた一つでも生徒が憶えていてくれたらそれが残ると言う事じゃないか? そしたら自分が生きてたという証明になりゃせんか?」「じゃ、仕事をしてないお母さんは?」と次男が訊く。「お母さんに聞いてみたら、きっというよ『あんた達を産んだことよ』ってな」
 妻の代になって初めて妻が産んだガン遺伝子。それは子供が断ち切って欲しい、是非。
 子供が成長するまで見守りたい、妻の唯一の願いはそれだろう。

☆八月九日〔長崎原爆の日〕
 「反戦反核・平和運動をすすめる大隅市民の会」で、地球上から全ての核の廃絶を!と訴える恒例の座り込み集会に参加。三十名の参加で、マイクリレーで道行く人々に訴える。
 夕刻の地元テレビの放送の中で、大きく映った私を見て子らが訊く。「座り込みをして何になるの」「長く平和な社会であって欲しいからみんなに訴えているのよ」と語るのみ・時期がきたら詳しく語ろうと思う。子供は自分が被曝三世ということは知っている。

☆八月十九日〔手術前夜に長女の乳房〕
 妻は昨日から入院。明日がいよいよ手術である。子供達は出校日なので自分だけ行く予定。
 小四の長女と久しぶりに風呂に一緒に入って驚いた。長女の乳房が微かに、ほんの微かに膨らんでいるではないか! まだ小四だと思っていたのに。思わず叫んだ「愛ちゃん、どうしたの! オッパイが膨らむとこなの!」 
 いつもは賑やかな娘が恥ずかしげに頷いたのに、思わず抱きしめて頬ずりしたくなった。もっともそれは随分前から娘は嫌がって許さないのだが。
 明日、母は乳房を切り落とされる。一方、娘の乳房は成長を始めている。その事に生命の転生を感じ何かしら畏敬すら覚えた。
 娘と二人で寝る時、不意に娘が喋り始めた。
「お父さん、『三年峠』って知ってる?」「いや、知らないよ。どんな話?」
「去年習ったの。あのね、三年峠というところがあってね、その峠で転んだら三年しか生きられない、つて言われてたの。そしたらそこでころんだ人がいてね、あ、自分の命は後三年しかないんだ、と悲しんでいたの。そしたら、ある人が教えてくれたの。一回転ぶと三年の命なら二回転ぶと六年、三回転ぶと九年になりますよって。それを聞いて、転んだ人は三年峠に行って何回も転んだんだって。そして長生きしたって」「おお、そうか。おもしろい話だね」「そんな峠が本当にあったらいいのにね」
 そうだね、と答えたものの、娘が今の話はお父さんを励ますだけのことで、サンタさんの存在同様に現実のものではないと考えるようになるのはいつのことだろうか。或いは、乳房の膨らみ始める頃なのかも知れない、と考えた夜。

☆八月二十日〔妻は手を振りながら手術室へ〕
 午後二時からの手術の立ち会いの為、妹と早めに病院で医師の説明をきく。
「第三ステージにありましたガンが、抗がん剤で縮小しました。左乳房の全摘出手術を行います。三時間ほどの予定です。術後にまた説明します」
 私の母と、妻の伯母が後から到着。四人に見送られてストレッチャーの妻は手術室へ押されていく。途中、妻は片手を挙げて皆に手を振ったのだった。
 五時を過ぎた所で、立会いの方は、と呼びに来たので妹と二人行く。執刀医の院長が、手術着にマスクを外して言った「手術は成功しました。おめでとうございます」。「ありがとうございます」と頭を下げると、院長は平たい金属容器を指示した。中に、血に染まった豚の赤身みたいな肉塊。乳房とは思うのだが、こんもりした肉が置かれているだけにしか見えない、と思った時、乳頭に気づいて、乳房全体だと解る。妹は後ろに隠れて、怖いのか見ようとしない。
「このあたりがガンのあるところなんですよ。見た感じだけでは解りにくいでしょう。触ると判るんですがね」と院長がゴム手袋の手で指し示すものの、触るのを許可している訳ではない。手が伸びそうになるのを私はガマンするほかなかった。衝動と言ってすら良かったかも知れない、今まで息づいていたものが生命を失った時に、抱きしめたくなるような感慨――。
 その横に、親指大の大きさの肉片から順に小さく、切り取られたものが二十個ほど並べられていた。
「これは、リンパを採ったものです。今から検査して転移の状態を調べます。結果が出るのは三週間後です」
と厳粛な顔で医師は言ったのだった。

☆三週間後〔結果が判る〕
 妻から電話がきた「今日、結果が判ったの」「で、どうだった?」
 知りたいのは転移の状況だ。何個だ? せき込む。
「どうだったと思う?」「判らん。速く言え」「あのネ、摘出した乳房からガン細胞は発見されませんでした。って」「という事は消えていた、という訳か」「うん、そう」「ホオッ。で、リンパ転移の方は?」「見つかったわ。何個だったと思う?」
 切ったのは十九個〔ステージ三だったから五個を超えるか〕と思いつつ、妻に促す。
「判らん。早く言え!」「一個だった。『奇跡に近いですね』と、院長先生に言われたわ」と、妻の声は弾んでいた。

受話器を置いた時、思わず拳を握りしめてガッツポースが出ていた。やったぞ、と。
どんな気持ちか例えるなら、例えば野球で、逆転打を打って一塁いや二塁に駆け込んだ選手みたいな。さよならホームランじゃない。決して終わりじゃない。逆転したばかりだ。死んだフリの敵が再び攻撃をしかけてくるかも知れないのだ。油断など決してするものか、あと十年は。否、医者から「ガンをやっつけましたネ」と言われる時までは。
 闘いは続く。今からも一層、家族全員のチームプレーが必要となる闘いとなるだろう。
 勿論、負ける訳にはいかない。家族全員が一丸となったチームプレーができた時、必ず勝利するに違いない、そう確信している。

 闘いは今から、闘いはここから、だと。                               終

  初出誌・文芸誌「しずむ河馬」第一号 一九九八年十二月発行誌 掲載

 

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