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カムイ伝・穴丑
              

 

 ♪今日の仕事は辛かった あとは焼酎を
   朝風呂を楽しんでいると鼻歌が口を衝いてきた。二米の波と天気予報が報せていたので本日の釣りは無し、と決めている。
「気分よさそうね」と妻の声。
「おう、焼き鳥頼む。後何日だったっけ?」
「一週間前に訊いたばかりよ。だから三百引く七日。二百と九十三日となるでしょ」
 食卓には缶ビール。発泡酒でなく本物ビールが一本だけ付くのは休日の定番だ。  
   もう一つの定番がレンタル映画の鑑賞。「昭和残侠伝」でなく「赤軍PFLP世界戦争宣言」の方を選び、開始した。勿体無いのでなるべく二人で観る事にしている。が、横に座った妻は、旧い映画ね。そう言い放つや、間もなく立ち去っている。
 
   会場入り口で受け取った入学式粉砕と書かれたビラ。

『キミは資本家階級の手先となる学問するのか、それとも被搾取の人民と共に学ぶ学問をするのか。学ぼう、唯物研』。
   配っていた男が話しかけてきた、学部は? 経済だと答えるとボクもそうだ、と、しつこく勧誘してきた。部室に行くとそいつがいた。
「彼も新入学生なんだよ。唯物研の合間にこの部屋で受験勉強をやって、やっとこさ合格したという訳。今じゃこの部屋の主さ。三浪だったか? カムイ」
「いや名誉ある四浪だぜ。キミね、ここは寝泊りできるんですよ。使える物は敵の施設であろうと利用する、それがボクの流儀でね」
 薄暗い部屋の痩せた男。墓場の鬼太郎に出てくるネズミ男と呼んだ方がカムイより似合っているような、それがカムイとの初めての出会いだった。だが。数か月を経ずして部室は放棄に追い込まれる。自治会を取った他のセクトから追い出されたためだ。

   一九八十年。教員採用試験最終面接。
「君は〇県の大学を退学した後、×大の通信課程で教職単位を取ってる訳だね。前の大学を辞めた理由は何かな?」「高校教師になりたいという動機が強くなったからです」
「フム。卒論のテーマは現象学と言ったね。簡単に説明して貰えるかね」「主体はいかにして現象を認識しうるかという認識論です」
「学科試験の問題で『存在が意識を決定する』の出典を答えよ、の正解は極めて少なかったんだ。キミは正しく『ドイツイデオロギー』と答えていたね。この認識論に対するキミの見解はどう?」
「反対の立場です。意識がその存在を決定する、の方です。実存主義はマルクス学派からは最後の観念論と批判されてるようですが」
「実存主義者なのかね、キミは」「そうです」
 面接室を出て舌を出したのは、観念の中。
   教職試用期間終了日は半年後。着続けた背広をクリーニングに持って行くと言われた。
「新品を随分着続けましたね。クリーニングは初めてでしょ、お客さん」
   教組へ加入届を出す明日から髭を伸ばそう、背広を着るつもりも無い。「醜さは秩序への反抗である(ニーチェ)」で行くと決める。三十を超えた新採の相応の決意か。

   夜逃げを手伝ったカムイの新居に行く。新居といっても安い旧い広いだけの部屋だ。出入りが多くて傷んだから、と畳替えの費用を請求された事に怒っただけが夜逃げの理由ではない。公安の動きも警戒したのだろうが、理由は手伝った自分にも語らない、出入りが多いとは思えないのだが。暗号で呼びあっていたメンバー十名ほどが週二回集まっての学習会。それ以外の日は立ち入り厳禁となっていたのと関係あるのか? 

   意見を述べている。入試合否判定会。
「定員内不合格者は出すべきでない。教育公務員である我々は、教育を受ける権利を奪うべきでないと考えるからだ。低学力問題というものは、本人の資質のみに起因すると断言できるのか。本人の責に帰す事のできない家庭環境にも原因は求められると思う。ご存じか、東大合格者の大半の保護者が高学歴高収入であるという事実。加えて東大卒の官僚が日本の針路を誤らせ、社会を腐敗させている実態。金持ちは正義だというような汚れた道徳観を子供達から払拭しなければならないと考える。よって、貧困家庭の子弟ないし低学力の生徒達にこそ希望を託すべきと考える。弁証法的に言うなら、有るのは無くなり無から有が内部矛盾的に発生するからだ、それ故に、である。そもそも子供を競争させ選別する役目を学校教育は果たすべきでない」

「発言途中かも知れないが、時間がきたので採決に移りたい、いいですね」と司会。頷く校長。採決結果、定員内全員合格に賛成はオレと理科助手の女の二人だけ。閉会後、そいつが近づいて小声で言った。
「孤立させたら可哀そうと思って同調したけど、浮いているって自覚ないの? 先生」
        
   車の免許を先に取り、釣りが目的での船舶免許は離島勤務の時に取る。
  実技試験は人命救助だ。落とされた標識ブィに、ボートを接近させて拾えれば合格というもの。ボートのスピードと余波次第でブィは離れて行き簡単ではない。焦りかけた時、実技教師が言った「人間だと思わずにブィに船首を思い切ってゴツンと当てろ。そうすれば船の縁に沿って流れる、そいつを捕まえるんだ。ナァニ、人間の頭だったら運次第さ」 
  その時。なぜか自動車学校での教師の言葉を思い出している。 
「学校の先生は楽だろ? ダメな生徒は見限れば済むだろが。こっちはそうはいかない。卒業まで面倒みてやらなければならないんだ。それでメシ喰ってるんだから」。

「ガロの新刊出たか? カムイ」「そこにある。貸し出しはダメだぞ、解ってるだろ、ブンタロ。収集してるんだから、俺」「カムイ伝のどこがそんなに面白い?」「唯物史観の勉強かな。お前はどうだ?」「俺は、ねじ式の方だな」

「あんな夢みたいなのがいいとは変わってるよ。カムイ伝はどうだ?」「昔サンデーで読んだ外伝の方が俺好きだな、絵が綺麗だったし」

「抜け人カムイに悲哀を感じ共感したって訳かい? ブンタロ」「そんな深い訳じゃないさ」

「抜け人が何故追われ続けるかは、サンデーでは見えなかっただろ。そこが少年誌の限界ってヤツよ」
 外に出て、近付いてくる女と出遭う。トンボメガネにパンタロンは暗号名ローザ。一度だけ学習会で一緒になった。軽く頭を下げ、カムイの部屋に向かう女が過ぎる。
   ヤツの部屋には布団一組と僅かの服があるのみで何も無かったのに気づく。他にも隠れ家がある、という事か。

   研修権を活かし、民俗学資料を収集する。「常民」の暮しがテーマだ。常民とは被支配階級ではない、庶民を指す。
  小説として形にしよう、論文には程遠い。タイトルは「お田植え祭り」。

  種蒔きから収穫迄十か月を要する米作りは、期間が出産を類推させるからか、お田植え祭りでは男女の営みを象徴するような行為がなされるのは多い。神事としての男女の営み行為を面白可笑しく書き始め、悦に入った処で思い至る、このエロ小説を発表する場があるのかと。そしたら教えてくれた同僚がいる。ニッ教組文学賞があるゾ、選者はあのハイタニさんだよ。
   よっしゃ、とハイタニさんの過去の選評を探す。彼は厳しかった。「教育理念のカケラも見えないものが小説といえるか、甘えるんじゃない」とケナしては受賞作を出していなかったのである。応募者教師から反論が出ていた、「仕事をしながら書くという厳しい現実にある私達の創作活動をもっと認めて貰いたい」と。再反論は出なかったが彼はきっと言っただろう「甘えるな」。それもそうだ、と一喝を耳にする以前に意欲は萎え、穂になる事も無くエロ小説は青枯れしている。
      
 断じて聞く事の無かった音声、それが脳裏に届く。途切れ途切れで、微かに。
『我々は 勝利だった 再び解放講堂から時計台を 再開する日まで 放送を中止 』
 鼻孔を刺激するのは催涙ガスか、否、その記憶すら後からの刷り込みによる観念の産物だ、自分はその場を脱出していたのだから。
   そこは前々日まで籠城していた場所だった。一九六九年、一月一七日。
「ガイジン部隊のブンタロ、クンよ」
 ヘルメットを被ったまま語りかけてきたカムイだ「情報では明日から決戦になる。そこでキミと他数名は今日中にここを出てくれ、決定だ。組織維持の為だと思いたまえ」
「あんたは? あんただってガイジン部―」
「俺は残る組だ。もっとも俺は、むざむざと玉砕なんかはしないがな」
      
「『君は死んでからも命が欲しいのか。それよりも現在を懸命に生きよ。死んだ後に、人々から偲ばれる存在足りえたら十分じゃないか』と言ったのが無神論者サルトルだ。
   唯物論者マルクスは端的に言う『存在しかありえない』。霊魂とか神とかは存在しない、それは人間の観念の産物だ、とね。万能の神が存在して祈りに応えうるのなら、罪ない子供らが戦争とか飢餓で死んでいくのを何故に見捨てるのか、と言っただろう。宗教はアヘンつまり麻薬みたいなものだと断言してるからな、みんな、どうだね、解ったかな?」。

  若い教師達を夏山に誘ったが、当日になって来たのは理科助手の娘一人だ。
 ところが。山頂付近になって急速に雨雲が発達し、慌てて下山にかかる。尾根伝いに下り始めて間もなく、降りだしたと思った時には激しい雷雨となった。高い場所、動く事、そして金属品と言った条件を遠ざけねばならない。急いでリュックを下ろし空身になって稜線から垂直に下り、一本の高木の下に身を伏せて避難となる。高木が避雷針となるなら高さを半径とした安全圏となる筈だが保証はない。伏せてすぐに火柱がバリバリと音を立て隣の尾根に垂直に落下したのを目撃する。真上に来た狙撃者、そいつにキッチリと照準を当てられたみたいで生きた心地がしない。だが同伴者には弱気は微塵も見せられない。このまま夜に突入したら遭難騒ぎとなる、と身動きとれないままに女教師の手を握り続けていたら、歯がガチガチと音を立て始めたのは寒さのせいか。
 
 救対に来ている。カムイや仲間の救援に取り組まねばならない。だが警察発表逮捕者約六百名の殆どが、こちらでも把握されていなかった。そこで見知った顔の男と遇う、暗号名デンジローとか言った仲間。そいつが連れて行ったところにカムイがいた。腫れあがり、赤チンを塗った顔は赤鬼みたいに異形だったが、彼は意気軒昂だった。
「完全包囲網をどうやって脱出したかって? 被逮捕対策は考えていたのさ。カムイだって飯綱落としを編み出した時に言ってるゾ。『秘術は生まれた瞬間、破られる対策も考える』と、な。飯綱返し、という相討ち対策がカタビラ着用だったというわけだ。
 俺の事だったな。『隠形滅殺』で病院に担ぎ込まれて逃げる手も考えたが止めた。先が病院とは限らんし、な。そこでミジン隠れよ。壊れた器物の下に三日潜んで深夜に脱出したという訳。ミジン隠れはカムイよりサスケの得意技だったかな。ハハハ」
 ガス対策に持ち込んでいたレモンを齧って渇きを耐えたと笑うカムイだった。だが、ミジン隠れというよりレモンを咥えたネズミ男の映像がオレの頭にはチラついている。

「年令が二十歳離れると、育った時代が違う訳だし私、よく解らないのだけど、学生運動の過激派とかだったの?」
 初めて飯を食った時、女助手が訊いてきた。
「別に。もし、だったとすればどうする?」
「内ゲバとかが、あるんでしょ? 心配は無いの?」

「もう収まったさ。それより気遣ってくれたのかい、だとしたら嬉しいね」

 酔った同志が二人、一升瓶下げて来る。
 沖縄主席選挙をヤラが取ったのはめでたい、と叫び、カムイの家に行こうと吠える。
 案の定、カムイは怒った。飲酒は組織的には認めない規律だったのだから当然だが。
 しかし。しょげた我々に同情したか今回だけだと家に入れてくれる。気まずい酒が、ローザが来てから変わった。彼女の簡単な手料理で飲んでる最中、カムイが彼女に訊いた「オレの踊り、見せた事あるかぃ?」。
 横に首を振った彼女を見て、隣の部屋に消えて出てきた時は、浴衣に白足袋と着替えている。そして指示した。「プレーヤーがイカレてるので俺が歌いながら踊る。皆で伴奏のリズムを刻んでくれ」。
 指示された、タンタ・タッタタの二拍の手拍子に合わせ、タタタタタタ、タタタタタタと前奏から、ヤツが歌い始めたのが「流転」。
  ♪男命を みすじの糸に かけて三七
 ピンと伸ばした背筋に、しなやかな体の動きとすり足、軽やかに舞う扇子。あて振りとかでない本物の舞踊を一同が見ていた。
  ♪意地は男よ情は女子 ままになるなら
 上気した顔でカムイを見つめるローザの横顔を綺麗だと思った。正座して終りの礼をするカムイに仲間が訊いた、どうして踊れる、何の為だ? ヤツは悠然と答えている「万国の労働者と団結する時の道具さ。音楽は世界共通語って言うだろ。これがジャパニーズスピリッツだと披露して、理解し合うのさ」。

 教頭が処分状を渡す。分会長へは文書戒告。人事院勧告完全実施要求のストへのもの。
「教頭、不利益処分だろ、これ。なんで校長が自分の責任で持ってこないの? 俺達のストで管理職や非組の給料が保障されている実態をどう考えているの?」。教頭無言。
「メイヨの処分状がまた一枚増えたぞ。今度はどこに飾るかい?」
「しょうがないわね。この積算で昇給は一年延伸になった訳ね。まぁ誰かが分会長は担わなければならないんだろうし」。

 妻、泰然自若。

『テントより広めに雪は固めるんだ。力を入れて踏み固めろ』
 冬山での訓練を経験者のブンタロ君にやって貰いたい、そうカムイが言った。山岳ベースに闘争拠点を移す時の事を考え、同志に経験を積ませるつもりだ、と。初心者には無理だと答えたが押し切られ、カムイ他五名を連れてのパーティとなる。
『ホエーブス(燃焼器具)のテント内使用は細心の注意が必要。十分に気化させるんだ』『雪を固めて溶かし、水は作るしかない。だから燃料分しか水はないと自覚して大切に使う事』『ラッセル先行者の後に続く者は、穴に横の雪をワカンで崩して入れ、固めるようにして続くように、いいな』
 厳寒の夜だった。初めての雪山に皆が寝付かれずにいる。その時、カムイが思いがけなくも焼酎の五合瓶を取り出している。
「回し飲もうか、暖まるぞ。今日だけ特別ナ」。
 そう言い、ロウソクの灯りの中にニヤリとした顔を浮かべる。「酔っての議論は生産性が無い」が信念で、仲間での飲酒を禁止してきたカムイの笑顔に皆も釣られたように笑いを浮かべた後、焼酎を口にしている。

 「人は使命を持ってこの世に生まれてくるのです。お子さんの病死は悲しむ事ではありません。今までよく頑張ったと褒めてあげるべきなのです、立派にその使命を果たし安らかに逝ったのですから。我々は使命の意味を理解し、見守ってくれる故人と来世で胸を張って再会できるような生き方をしましょう」 
 通夜席で熱弁を揮っているのは、オレ。

「それでは目を開けます」と、保健室登校の生徒に催眠療法中とは我ながら忙しい。
「前世では何が見えた? 自分は何だった? 何をしていた?」
「木漏れ日が爽やかな、そして静かな林の中にいました。娘の私はとっても安らかな気持でした。こんないい所なのに何故みんなはここを出ていくのだろうと考えていました」
「それで、現在の自分へのメッセージは?」
「自分を大切にしなさい、だったようです」
「解りました。では私の解釈とアドバイスを聞きなさい。

 林の中の娘は現実逃避した貴方です。ナイーブな貴方にとって孤独は傷つかない。しかし、学校や社会という所は闘い傷
つけあう面があるのは確かだ。でも、人は社会的存在でしかありえないのです。そこで貴方にアドバイスをしましょう。悲しいから泣くのではない。泣くから悲しくなるのです。辛い時こそ笑いなさい、元気が出ますから」

「ローザは帰ったところか? カムイ」
「ああ。それより見ろ、ブンタロ」
 滅多に見ないブル新聞、そこに〇〇派が山荘で一網打尽に逮捕されたという大きな見出し記事。武装訓練のため集結していたという内容を食い入るように読んでいると
「全員集結というのは、な、こんな危険性がある。だからオレはダメだと言ってるんだ」
 吐き出すように言った後、口調を変えた
「ブンタロ、お前、どう思う? 組織内恋愛についてだ。恋愛は厳禁だというヤツらが多い。革命ゴッコやってる訳じゃないんだからとか、党派規律が乱れるとかの理由でな。だが俺はそう思わないんだ。同志が愛し合い、ブル婚の形をとる事無く、革命戦士が生まれる。良し、と俺は思うんだが」
 見てるのは革命指導者でなく一青年の顔。
       
 入試否判定職員会。主任の集まりである選抜委員会が職員会前に開かれ、そこの結論が提案される。司会は職員代表でなく教頭だ。選抜委員会の判定原案に質問意見は? と教頭は一応問うが、自分も含めて誰も何も言わない。理由は、採決無し、だからである。
 職員会が、職員が自由に意見を出し合って決定する機関でなく、校長が職員に諮問する機関でもなく、校長の管理運営意向を職員が拝聴する機関になってから誰も発言しない。物言えば、多忙な職員から時間の無駄とばかりに睨まれる始末となっている。
    
 組織内恋愛の話をした。それがカムイとの最期の会話となる。ひと月も経っていない。
 デモ参加の最中、警棒で滅多打ちにやられ、警察に連れ込まれた病院でも長く放置された挙句、ヤツは死んでしまったのだから。
 ガロの「カムイ伝」は連載中だった。
 同志カムイは、その後百姓一揆が鎮圧され指導者ゴンや正助が抹殺されていく結末を見る事無く、独り去って行ったのだった。
 ローザが仲間の前から消えたのは彼の人民葬の後、間もなくだ。大学も辞めたと聞いた。消息は知りようも無かった。

 船外機付きの二人乗りFRPボートが帰港を余儀なくされる。妻のシッコの為だ。妻は簡易トイレすら持ち込もうとせず、頻繁という訳ではないが、その都度帰港となるのだ。スッキリ顔になった妻が言った。
「免許も一級に替えたし、クルーザーに買い替えようか? 中古なら手が出るでしょ?」
「もの凄く維持管理に金を食うんだぜ。国外に出てトローリングでもやるつもりかい?」
「国際漁師っていいんじゃない」

 破顔の妻。

 カムイの生家に訪ねて行ったのは新婚旅行中。ふと思い出したのだ、彼の言葉を。
 ―― 国鉄××線の途中に俺の苗字と同じ名の駅がある。駅前の酒屋が俺んチよ。
 没後二十年近く経ち、酒屋は無くなっていた。駅前の区画整理を機に廃業したという。だが訪ね着いた先に年老いた母が居た。
 同志だったとは名乗らず、学友だったと言い、花を手にした妻と焼香させて貰う。
 遺影は高校卒業の頃のものと思われた。制服にコートを着け、髪を伸ばすところかと思えた。お茶を貰い、母親と語る。
「何のお仕事をしていらっしゃるの?」
「高校で、社会を教えています」
「いいお仕事ですわね。子供たちに未来を託せる。主人もそうでした。この子にも教師になって欲しかったみたいですが、反発したのか経済の方に進んでしまったの」
「この人、十年も回り道したんですよ。おまけに二十も年の違う娘を略奪婚したの」
 妻の茶目っ気に母親は笑顔を見せた後、勉強部屋に案内した。何か形見に貰って下さいと懇願するように言う。選んだのは、風呂敷を忍者覆面被りした、ヤツの写真。目鼻に面影がある、小学校高学年の頃か。それと「隠密剣士」のレコードだった。
辞去する間際になって、妻が突然言った「私、手帳を戴けませんかしら?」
そんな大切なものをと言おうとした。が
「ええ。どうぞお持ち下さいな、お嬢さん」、 穏やかな言葉が返ってきている。

 子供は出来なかった。ためか、歳の離れた友人みたいに二人は接していた。妻は助手の仕事を結婚後十年ほど続け、辞めている。自分の時間が欲しいという彼女に続けろとは言わなかった。共通の趣味はあった。キャンプなどアウトドア、国内外旅行に読書。
 読書スタイルは異なった。自分は読書と創作を静かな部屋でやりたかったし、彼女が図書館で過ごしてくれるのは都合がよかった。
 アウトドア趣味は共通だったが、スポーツ好きな妻はトライアスロンまでやり始め、各地の競技大会に同行する始末となった。毎朝一緒の散歩を、仲がよろしい事で、と冷やかされたりもしたが、その後、彼女が一人でランニングに向かうのが人に知られていないのは幸いだ、と思っていた。

 ♪白刃の雨は好かないけれど  許せ 世の為 人の為 
 隠密剣士の歌を酒と共に聴くのが日課となったのは新婚旅行から帰ってしばらくの間。荷物になるでしょうが、と一升瓶を母親が持たしてくれた、主人の弟が造っているものだと。記憶が甦る、山にヤツが持ち込んだ酒だった。それにしてもカムイよ。いくら忍者好きでもこれは無いぜ、公儀隠密なら我等の反対、権力側の人間の話だろ、そう思うと可笑しくて涙が滲んできたりもした。
 ところが。ほどなくして失策を妻が白状する、手帳を失くしたと。俺も未だ見てない大切な物をと、激高した。待ち時間に読むつもりだった病院や市役所を懸命に探したけど無かったと、しおらしく言う。それでも詰った、なぜ貰ってきたんだ。妻は弁解した、貴方や貴方の時代の事を少しでも理解できたらと思って。手帳末尾の指名や住所は空白だったと言ったが、幸だったか不幸だったか。

「できたぞ。傑作だ。読んでくれ」
 創作原稿を妻に渡し、粗筋を説明し始める。
「東大闘争に参加したが組織維持の為に被逮捕されなかった男が主人公だ。彼はカムイという同志に影響を受ける、だがカムイの死をキッカケに彼は組織から離脱する。教師になり結婚そして定年。余生を楽しもうとしていたところへ、昔の組織から連絡がくるのだ。時は来た、前線に復帰せよとね。船舶免許も取り催眠法もマスターし闘争資金も十分に確保した同志は帝国主義社会において、桂男としてよく忍び、その任を果たした、とナ」
「桂男?」「敵地に長く潜入し、正体をも見破られずに活動する忍法さ。敵に人質を取られる不首尾もせず良く忍んだ、と組織から褒められる訳」

「人質取られる、って?」「子供がいたら帝国主義に絡め捕られる可能性が生まれるだろ。そうなれば身動きできない」

「それで? 主人公はどうなるの?」「どうもしないよ。組織から指令がきたところでオシマイ」

「読者に考えさせるという訳? 貴方が主人公ならどうする?」
「どうもしないさ。こんな過去の亡霊みたいな組織が存在する訳ないだろ。セキグンだって十年前に解散宣言出したんだぜ」

 玄関を開ける音がする。妻が一泊旅行から帰って来たようだ。十年ほど前から友人達とふた月に一度ほどの泊旅行をやっている。
 退職したら妻との旅行も楽しみたいものだ、と考えていると部屋に入ってきた。
「只今。何してた?」「人事評価を見てたよ」
「人事評価って?」「今年から始まった個人の業績評価さ。今日、校長から言い渡された」
「で?」「五段階の二段目、B評価」

「それって?」「悪くはないさ。来年から評価は給与に反映される。Eのカット分がAに上乗せされるそうだ。いい時に辞めるよ」
「教育は集団指導の賜物だから教師に競争原理はなじまない、って言ってなかった?」「言ったさ。でも組織で反対取り組みができないんだからしょうがないだろ。いい時に辞めるよ」

「辞めた後、どうする?」「好きな事やるさ。人生を後悔したくないしね。キミも好きな事やればいい。オレは小さな港町に家を買ってさ、ヒーリングハウスなんかやりたいと思っているんだが」
「癒しの宿? 民宿? コンセプトは何?」「疲れた体と心を再生しませんか、だ」
「癒して再生するっていうのね? 疲れた企業戦士とか、を。墓堀人はどうしたの?」
「墓堀人? 何じゃい? それ」

 予兆も、書き置きすら無く、妻が忽然と姿を消した。一週間になる。探そうにも彼女の友人を知らない。実父母とは記憶もないうちに死別し、幼くして叔母の家で育てられたという彼女の身寄りも一人として知らなかった。結婚披露宴をしなかったのは二人の合意だったから。
 警察に捜索願いを出そうとしていた矢先、電話が鳴る。聞き取りにくい男の声だ。
「葉書読んだかね?」
「葉書? 何の事だ? 誰だ、あんたは」
「まだみたいだな。アーンタの所の配達は五時半頃だったな。では六時に再度するよ」
 隠しシールが貼られた葉書には二行だけ。
『この葉書が届いた頃には出国しています。船の免許の中を見て下さい』。
 倉庫に走り、船舶免許の袋を引き破る。
『打ち明ける機会も無いまま、今日に至ってしまいました。定年後を楽しみにしていた貴方に黙って出ていく事を許して下さい。
 それと、退職金の半分を勝手に戴く事も。
 私、家を出て、世界革命に加わる決心をしました。追ってくる? それとも?
 発端は新婚旅行でした。失くしたと嘘をついた手帳、そこに自分の出生の手がかりを掴んだのです。私はカムイの娘でした。手帳を手掛かりにアクセスを続けて結論に辿り着いたわ。そして、アクセス先から私は勉強を始めた。父と母が目指したもの、それを知りたかった。勉強すればする程、貴方との距離が開いた気がして増々言えなくなった。貴方の事を知ってて近づいた訳じゃない。出会ったのは運命。離れるのは私の意志。ゴメンね』 
電話に飛びつく。
「アロー、ブンタロー。手紙読んだか。

 妻がローザの娘だと知って驚いたかい。彼女はジハードの優秀なムジャヒド、ああ戦士だ、になるだろう。

 学習会の参加も、そしてアラビア語すら独学でマスターしてきたよ。君と一緒に来たかったと言っていたが」
「君らは何だ? イスラム原理主義か? アルカイダか? タリバンか?」
「否。組織名は言えない。だがカムイの意志と共に、世界革命を目指す組織だとは言っておく。彼女と行動を共にしようという決意がキミにあったら、同志に加わる事はできる」
「どうするんだ?」

「ベイルートに来たまえ。来たならコンタクトをとる。キミの動向は常に把握してきた、これからも、だ。革命同志に加われば、抜ける事は出来ない。抜け人の掟にもあっただろ、『抜ける時は死ぬ時だ』と」

「デンジローか? キミは」

「何だ、それは。名前は言えない。だが、今回のキミとのコマンド名は穴丑としよう」
「アナウシ、だと?」
「桂男は術だ。穴丑はそれを使う主体よ。敵地に潜み、味方にも存在を知られない忍者さ。なお、来る時は財産全額、必ず持参せよ」
「年金は、これからどうなるんだ?」
「年金ねぇ、ワッハ」の、ワッハが笑いでなく、どうしようもないな、を意味するアラビア語だというのは後に図書館で知る。全てが理解の外にあった。手がかり一つ無かった。
  妻はオレの代わりに組織に飛び込んだのか?オレを促す為に進んで加わったのか?それともオレを見限って自分の意志で?
 一週間後、分厚い封筒が届く。
 中に疑問への回答があるのか、まさか離婚届け? それとも組織の案内なのか?
 差出人は穴丑の二文字。
 開封できぬまま睨みつけていた文字が大きく揺れ始めている。 

                                               完

 

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